PLAYNOTE パウロ・コエーリョ『悪魔とプリン嬢』

2008年04月21日

パウロ・コエーリョ『悪魔とプリン嬢』

[読書] 2008/04/21 04:05

毎日の稽古とプランニングと打ち合わせに疲れた自分へのご褒美。コップ一杯の日曜日は無理なので、せめてしずく一滴の日曜日を飲み干したい。読むという行為は自発的な思考力を奪う、とか何とか、確かキルケゴールが書いていたが、だからこそ読みたい。何も考えずに読書の愉楽と光悦に身を浸したい。そんなときに信頼できるコンテンポラリーの作家はもう、パエロ・コエーリョくらいしかいないのかもしれない。

ある閉鎖的な村に一人の異邦人が現れる。彼の提案するゲームは実に単純で、一週間以内に一人の村人の遺体が村の広場に晒されたら、11個の純金を村に与えよう、というもの。過疎と疲弊が募るこの小さな村に、あっという間に活気と贅沢をもたらすのに十分なだけの値打ちを持つものだ。そして村人同士の心理ゲームが始まる、というもの。

「一人の人間の物語は、人類全体の物語と同じである」

シンプルにして精緻な構成。戯曲化したい。『オイディプス』や『マクベス』みたいに人間の本性をぎらりと剥き出しにする力強い展開。推理小説を読むようなスリル。たまらないバランスだ。一行一行に何とも美しく的確な比喩が並び、そこから滲み出す人間の声、血、脳漿、精液の匂い。作者の苦く鋭利な慧眼を感じさせる、非の打ち所のない一冊。好きだ。

以下ネタバレだが、本書の最高に心憎い点は、「人間は善なのか悪なのか」という問い、いや、もっと正確に言えば、随分善に対してはハンディキャップを与えているので、「人間は善であることが可能なのか」という問いと言った方がいいだろうが、その問いに対し、どちらでもない回答を提示している点にある。村人がベルタを殺すのをやめたのは、ケルト人の岩の前で良心の最後の欠片がぽろりと零れ落ちたから、ではなく、単に手に入れた純金の換金が酷く困難な作業であり、事の次第が露見するのを恐れたがためでしかない。と書くとあまりにあっさり聞こえるが、そこまでハラハラとページを繰り、ぎゅんぎゅんと善悪についての思考を巡らせていた読者にとって、その回答はむしろ無慈悲な響きすらある。引き付けて突き放す、この感覚は是非味わってみて頂きたい。

パウロ・コエーリョは、愛や死や悪や勇気や旅と言った哲学的なテーマを扱いながら、それを愉快な読み物として完全に成立させている点が凄まじ過ぎる。哲学系娯楽小説。エンターテイメント・フィロソフィ。明快・鋭利・的確な文体は、問題の核心を一気に突き刺す鋭利な刃物を想起させる輝きを放っており、飛び抜けたセンスの良さを感じさせる。

こういう小説が読みたいんだ。こういう、多角的でありながら、問題に対しては直截的な小説が。平成人のだらしない身体と浮遊する精神、そういうのを的確に描いているという点では、現代日本作家にもとんでもない人は大勢いるが、パウロ・コエーリョのような広がりを感じさせる作家は少ない。大上段に構えて刀を振り下ろし、きちんと芯を切り通せる作家は少ない。

もうじゃんじゃん文体に誘惑され、ぎゃんぎゃん思考が触発された。麻薬だ、これは麻薬だ。三時間、一度の休憩も挟まずだーっと読み切ってしまった。これでも随分丁寧に読んだつもりだったのだが(読書において展開を急ぐ傾向のある最近の自分の読み方はよろしくない。文章を楽しまなければ本はつまらない)、それでも三時間。金銭的には五百円で、時間的には三時間で、空間的には自分の家で、つまりこれだけお手軽にこんな愉楽と興奮を味あわせてくれて、あっという間に俺をこのつまらない東京の大地と空気から融解してくれるものなんて、本の他にありゃしない。

稽古場は楽しい。人間の様々な表情と苦悩が見れるし、自分もリアルタイムで思考する。が、それだけでは足らん。本を読まねば。

どうでもいいが、まだパウロ・コエーリョ読んだことない奴は、どれでもいいから一冊お読み。この『悪魔とプリン嬢』は、読みやすいしとにかく展開に引き込まれるので、『アルケミスト』とかより読みやすいかもしれない。超おすすめ。

コメント

投稿者:kawamoto taisei (2008年04月25日 20:20)

久しぶりにhp見て、
ついつい、コメントをしちゃいました。

なんでかっていうと、パウロ、偶然最近好きで読んでてね。
パウロ、いいよね。
わかるわ。多分。