2008年04月20日
谷賢一翻訳・演出ミュージカル『Little Women~若草物語~』
以前からPLAYNOTEでもちらちらと宣伝している、谷演出のミュージカル公演がいよいよ二週間後に迫って来ました。完全な外注演出現場なので、誰一人知り合いがいない状態からスタートして、ようやく人様に見せられるクオリティに到達できそうな手応えを感じ始めたので、告知しました。
見所
- 本物のブロードウェイミュージカルを上演(きちんと版権買ってます)
- ブロードウェイミュージカルの曲のクオリティはそのままに、小劇場の密な空間で上演
- 割と必死で翻訳した、古臭さを感じさせない台詞
- 「はちみつ組」と「ダージリン組」、WキャストでW演出
- びっくりするくらい歌のうまい奴が数人いる
- 「ミュージカルだから」で許さない、きちんと心理の溝を掘り込んだ演技指導
ご予約はこちらから(下記フォームから予約すると自動的に谷扱いになるんで、特に気にせず使ってもらって大丈夫です。メールでの予約も受付中)。是非観に来て下さい!
- 予約フォーム
- メール → nobeernolife あっとまーく wm.pdx.ne.jp
さてもう少し書くよ。ミュージカルについて。
ダブルキャストについて
「脳みそ全部お花畑、登場人物が、血液の代わりに身体中ハチミツ流れてそうなミュージカルってあるよね」
みたいな話をしていて、片方の組は「はちみつ組」に決まった。どうせミュージカルをやるなら、とことんミュージカルしてやれ、と。
かたや「ダージリン組」は、夢見る少女じゃいられなくなった、真っ当な常識力を持った人が見ても楽しめるもの、という意味で、紅茶の名前から取りました。
なので、漠然と区別すると、
- はちみつ組…大振り、ミュージカル的ミュージカル
- ダージリン組…繊細、暗部や細部を拾っていく
ような感じで作っていたんだけど、やっぱり自分の本然には逆らえないもので、はちみつ組と言えどもあり得ない感じの飛躍やデフォルメはしていないし、ダージリンの方でも必要な賑やかしや遊びは入れている。最終的に立ち現れてくるのは、ジョーを中心とした人物像の理解の仕方が違うということ。なので、どちらを観に来ても別に大丈夫です(笑)。
* * *
ぶっちゃけ俺はミュージカルが嫌いなので、自分がやってる演出が世間一般ミュージカルと比べてどうなんだかよくわからんが、よく言われる「いきなり歌う」についてはとっくり考えた。
※以下、寝る前にだらだら書くので随分論理の飛躍があるが勘弁。
感情が高まったから、心が零れ落ちたから、怒りが燃え上がったから、喜びがほとばしったから歌う。きっとそれは本当なのだろう。でも「突然歌うとかねーよwww」みたいになっちゃうのは、きっちり心理線が取れてないからと、歌っている最中の身体性に問題があるのではないかと考えている。
きっちりとした心理的解釈点が辿り切れてない、ということは往々にしてある。ミュージカルも作品によっては、芝居というよりショウになってしまっていることがよくあるだろう。歌ありき、踊りありき。今回は、きっちり芝居の筋彫りを描き込んでから、歌い方を決めていっている。
割と脚本がトンデモで、半ページで恋に落ち、3ページで命を落とし、2ページ後には忘れられてる、みたいなことが平気で書いてあったりする。だが、そこでくじけない。心理主義的リアリズムに傾倒していると、感情を理論化することに囚われがちだが、そもそも人間の心理や感情は非論理的で不条理で飛躍的なものである。重要なのは、「繋がっているか」という連続性ではなくて、「その瞬間に真実があるか」という迫真性でしかない。ひたすらに解釈の実験と失敗を繰り返し、何とか肯けるラインが見つかって来た。あとはそこに乗った役者の身体と声が、減速も暴走もせずそのラインを辿れるかどうかにかかっている。そしてもう一つ、人間の心理が急騰し急落する飛躍点に、理屈を超えた心理的迫真性が持ち込めるかどうか。今回、大きな感情を扱うジョー、ベア教授、ママ、この辺には結構いい役者を配せたので、割と芝居的には勝負ができると思っている。
二点目の「歌っている最中の身体性」に関しては、なかなか説明が難しいんだが、要は「感情高ぶったから歌ってるっつーわりに、その演技嘘だらけだし、その身体は心に背を向けているよね」っつーことが多過ぎる、ってこと。歌とダンスという型を追いかけるばっかりに、何つーか、「そんな人間はいない!」ってキャラがぽんぽん出て来る。今回、特に大事にしているのは、こんなこと。
歌も台詞の一部である。台詞を言う際には、意識は台詞や喋るという行為にあってはいけない。目的や動機、オブジェクトやパートナーがおり、意識はそいつに向かっているべきだ。だから、歌おうとしない。喋ろうとして台詞を言うのではなく、衝動に突かれて台詞があり、無意識に押されて台詞がある。
「歌を歌う」という感情的昂揚に見合うだけの身体性を得ること。いきなりハムレットから引用。
動きを言葉に合わせ、言葉を動きに合わせるのだ。特に守ってもらいたいのは、自然の節度を越えない、ということだ。それを越えてやり過ぎる、というのは、演劇の目的にそぐわない。演劇の目的とは、今も昔も変わらず、自然に鏡を掲げること、つまり、美徳や悪徳にそれぞれの姿形を示してやり、今という時代に、己が姿を認めさせることなのだ。(3 幕 2 場 17-24 行)
動きを言葉に合わせ、言葉を動きに合わせる。たったこれだけのことが実践できれば、きっと「突然歌う」の違和感は随分減る。それでもゼロにはならないだろう。だって人間はいくら昂揚しても語るタイミングで歌わないもの。
その最後の違和感を組み敷くことができるのは、要は最後は役者力と歌唱力ってことになると思う。ピカソが、カンディンスキーが、モディリアーニが人の心を打つのは何故か。まず、真実を扱っているということ。次に、芸術家に腕力があるということ。
美しいものは無条件に人の心を打つ。そこには理屈を超えた力がある。それは、表現力と言うよりむしろ、腕力に近い。そして、腕力はどうやって手に入れられるのかと言えば、筋トレしかない。画家ならひたすらに写実的なデッサンや色の研究を積むこと。その先にピカソやモディリアーニの線があり、カンディンスキーやユトリロの色がある。役者ならひたすらに基礎的な演技トレーニングを続けること。その先に心理主義的リアリズムがあり、フィジカルシアターがあり、歌舞伎や身体的特権論がある。
演出家にも腕力がある。アップは終わったから腕相撲はこれからだぜ。アイピット目白で俺と腕相撲しに来て下さい。
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