PLAYNOTE 永井均『<子ども>のための哲学』

2008年04月11日

永井均『<子ども>のための哲学』

[読書] 2008/04/11 02:22

自分は最近、「考え抜く」ということに対して最近とんと勇気を失い、功利主義的な立ち回りに慣れて来たがために、すっかり闘争心というものを見失ってしまったような気がしていた。「それもありかな」「これでいいじゃん」みたいな。たいへん大人になったと思う。そして、それは作家にとって、心臓を抜かれるような喪失なのだ。

別のことを調べようと思って購入した本なのだが、上に述べたような弱気な自分を吹き飛ばすような勇気をもらった。

『<子供>のための哲学』とは、プラトンやカントをわかりやすく解説する本ではなく、子供の頃の無垢で勇敢な心に立ち戻り、大人から見れば本当にどうでもいい問題をとことんまで考える、その思考の道筋を収録することで、本来的な意味での「哲学」を教えてくれる本だ。誰しもが一度は考えたことがあるであろう「本当に心を持って生きているのは自分だけで、周りの人間はみなロボットか役者なんじゃないだろうか?」という問い。俺も今もたまに耳にする。その度に最近は「誰もが通る道だよねぇ」とにやにや済ませていた気がするが、筆者の執拗で徹底的な追求を前に、自分がわかったようなふりをしているだけで、実のところ何一つ理解していなかったのだ、ということに気付かされた。そしてそれが大人になるということであり、最近感じていた闘争心の衰えと密接な関係を持つものであるということも。

また自分の話を書く。書評をやる気はさらさらない。

最近、ある人と話していて、自分の作品が評価されるとか、大きな劇場に行くとか、より多くの人を楽しませるとか、そういうことにはほとんど興味がない、ということを言ったら、はっきりとは見せなかったが明らかな落胆をその人は感じていた。俺は、俺が完全に納得できるものが書ければそれで満足だ(ただ、お腹は減るからご飯は食べたいし、親に迷惑はかけたくない。そういうところが、前述の闘争心の衰えの引き金になっているんだけれども)

つまり、自分のための執筆であり、自分のための上演である。観客不在の演劇などは存在しないし俳優・スタッフ抜きの演劇も存在し得ないから、当然一人でやるものではないのだが、究極的な意味においては自分のため、それだけだ。

この本でやっている<哲学>も、まだ幼かった著者自身が出会った驚き・謎・不思議に対して、他人の同意や賞賛を目的としてではなく、自分の気がすむようにわがままに敢然と考え抜く、という態度をとっている。ただし、その問題への考察の内容がどういうものであるかは、この本の中では割とどうでもいいことだ。本著の論旨は、その<態度>そのものを描くことにある。

「大人とは、世の中に慣れてしまって、わかっていないということを忘れてしまっている人たちのことだ」
「もしある人間に何らかの欠陥があるとしたら、その人間がいちばん救われるのは、何とかしてその欠陥を売り物にする方法を編み出すことであろう」
「ものを考え続けるためには、すでに考えられてしまったことを、そのつど打ち捨てていかなくてはならない」(そういう意味で本当に何かを考えたい人間には成長や経験などたいした武器にならないのかもしれない。谷)
さんと話したとき、彼が完璧に哲学的であると感じた。さんは現在の自説が有効に論駁されることにしか興味を持っておられないようであった」
「哲学というものは本来、黙って墓場へ携えていき、持ち主の死と共に消滅してよいものなのではないだろうか。思想は公表されなければ意味が無いが、哲学は違う。賛同者が増えることは、思想にとってはもっとも望ましい事であろうが、哲学にとっては本質的には意味は無いだろう」
「誰も味方がいなくても、ぼくには真実があるのだ。ぼくは現実の世界では負けたように見えるけど、ほんとうは勝っていいるのだ。処刑されていくソクラテスの快感は、おそらくこれに似ていただろう。この快感の根底には、他者に対する深い深い侮蔑がある。」
「……ウィトゲンシュタインが、哲学をしばしば潜水に例えた、という話が伝えられている。人間の体には、自然にしていると水面に浮かび上がる傾向がある。哲学的に思考するためには、その自然の傾向に逆らって、水中に潜ろうと努力しなければならない。」
「哲学が難しく思われるのは、それが他人の哲学だからなのだ。」
「哲学者なんて、自分にはすごく大事なことが分かっていないということに、普通の人以上に気をとられているだけの人だったはずなのに。」
「青年は存在の問題を意味や価値で解こうとし、大人は価値の世界の内部で価値の調整をしようとする。彼らにできないことは、意味や価値を存在へ返還することだ。」
「大人と青年は観念論者(イデアリスト)だ。彼らは観念の世界に安住する上げ底生活者(ニヒリスト)なのだ。青年とは大人の上げ底生活(ニヒリズム)」を攻撃する上げ底生活者(ニヒリスト)に過ぎない。老人と子供は実在論者(リアリスト)だ。彼らは、価値を存在へ返還せざるを得ない底なし存在(リアリスト)なのだ。なぜなら価値とは、子供にとっては、身につけるべき事実に過ぎないし、老人にとっては、身をもぎはなすべき事実に過ぎないからだ。子供はまだ存在の世界から価値を眺めており、老人はもう価値の世界を出て価値全体を存在に返還せざるを得なくなっているのだから。」
「……もしあなたにそういう理解者がひとりもいなくても、まったく孤独であっても、いやそうであればなおさら哲学をし続けて欲しい、と。」

コメント

投稿者:MASA (2008年04月20日 19:23)

通りすがりの者で、突然失礼します。mixiのそちらのお知り合いの方からこのブログの紹介をいただきました。

ブログの他のページもいくつか拝見いたしました。ウィトゲンシュタインに関心があるのだとのこと。このマイナーな思想家に若い方が関心を持って下さるのは稀なことで、とてもうれしく思いました。ウィトゲンシュタインは永井氏の思想の土台となっている哲学者であり、このcleverな思想家にもし関心をもたれたならば、やはり同じ著者の『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書)を読んでみることをお勧めします。

『<子ども>のための哲学』は哲学の根本的な問題を初心者向けに書いたものですが、問題の核心を捉えてはいるものの、議論が十分に尽くされているとはいいがたく、永井さんの要点を掴むには(『子どものための』という表題から予想されるのとは違い)やや難度が高いという難点を抱えています。

もし、永井氏が「哲学の根本」と捉えている諸問題を簡潔に掴みたいとお考えならば、『子どものための哲学対話』(講談社)
http://www.amazon.co.jp/子どものための哲学対話―人間は遊ぶために生きている-永井-均/dp/406208743X/ref=pd_bbs_sr_1?ie=UTF8&s=books&qid=1208685483&sr=8-1
をご覧になるとよいと思います。功利主義的な世渡り上手とは違う思考を学ぶためのヒントが多く入っており、哲学に関心がある方の入門編としては最適と思っています。

また永井氏は最近朝日新聞で人生相談のようなことを始めているようです。4/11では「人が生きる理由」という難題に対して「テレビが映ること」と「テレビの内容がつまらないこと」という対比を使いながら的確な返答をしています。合わせてご参考まで。長文で失礼しました。

再拝

投稿者:Kenichi Tani (2008年04月25日 19:39)

関心があるって言えば関心があります。ウィトゲンシュタインはとりわけ難解と聞き及んでいるので本格的に手は出していませんが、常に頭の片端に引っかかっていました。おすすめの本二つとも、いずれ時間ができたら読んでみようと思います。ご推薦、ありがとうございます。

うちは読売なんで人生相談は読めないなー。いろいろ情報ありがとうございます!