PLAYNOTE 東葛演劇部飲み

2008年03月02日

東葛演劇部飲み

[雑記・メモ] 2008/03/02 02:15

mixiにごにょごにょ書いているのも男らしくない気が最近して来た。なので日記を「友人まで公開」から「全体に公開」にした。そして、そうするならPLAYNOTEに書いたって同じだろうという気になった。なのでこういう風景的なことも書く。

東葛演劇部時代の一個下と一個上と顧問の志賀先生が集まっての同窓飲みに参加して来た。

随分遅れての合流になったが、やいやいと飲んでいた。顔も変わらなければ空気も変わらない、何か逆に新鮮味がないくらい皆昔の通りで、月日の経過に不信さえ抱く。思わず同輩のまう子にこんなことを訊く。

谷「まう子いくつになった?」
ま「え? 私? 25だよ?」
谷「本当?」
ま「何で?」
谷「久し振りに昔の友達に会うと、みんな同い年ってのが信じられなくなるんだよなぁ。誰かはもう26歳になっちゃってたり、誰かはまだ22歳だったりしない?」
ま「(笑)何言ってるの?」

何だかイタい不思議ちゃんのようなことを訊いているが、最近そういう感覚をよく感じる。月日に対して感覚がゲシュタルト崩壊しているのだろうかしらん。

「しょうや」から「さくら水産」へ移動し、志賀先生と漱石話に花を咲かせる。先生はさすが現国の現役教師だけあって、話せる。こういう友人を多く持ちたいものだが、同年代にはあまりいない。先生はひたすらに漱石が重圧と同時に使命感を感じていたであろう明治期における知識人としての近代的自我と、漱石のメンタリティのバックボーンとしての儒教道徳と時代の趨勢である西欧開化主義との軋轢を強調して話していらした。それと、彼の絶望の深さ、人間として触れ合いたいが、結局一人だよね、でもだからこそ逆に触れ合いたいんだよね、ということも話していらした。いずれもストレートだが説得力のある言葉で、さすが東葛で現国教えてないなという気がした。

志賀先生は可憐である。いくつだか全く検討がつかないし、どうもやっぱり探りを入れちゃいけない領域なのだろうが、すれてない。疲れていない。語る言葉とその瞳が実にみずみずしい。水揚げしたての水ようかんのようである。ああいう大人になりたい。

時に他の同輩・友人たちとは話さなかったのかというと、おがまきとガン細胞および昆虫の不思議についてしばし盛り上がっただけで、他はほとんど話さなかった。顔を見るのは嬉しいし、声を聞くのも楽しいのだが、何だか会った途端に急に相手の生活に興味を持って、「今何してんの?」みたいなトークをするのがどうにも不誠実なような気がして気持ち悪い。残酷なことを言えば、興味の失せた人もいる。それは皆が同じだろう。

さらに言ってしまえば、やはりどこかに「引け目」のようなものを感じる。どこそこの大学院にいるとか、どこそこで公認会計士をやっているとか、どこそこの一流企業におわすとか、どこかから「お前いまだに何やってんの、みっともない」という冷罵冷笑の声が聞こえて来るような気がする。勿論誰もそんなことは思っていないのだろう。どこからか、と書いておきながらはっきりわかっているのだが、どことはすなわち自分の中からである。

原付を拾うために店を出てすぐ人々と別れたが、何やら急に泣き出したいような気持ちになる。さっきの気持ちとは全く別の穴から沸いて来た感情で、人に打ち解けられない自分の淋しさをめそめそ感傷に浸るような、つまらない弱気だ。

家に帰ったら流しの中に理科の実験で使うようなビーカーが置いてあって酷く不気味だった。水が張ってあったが、何に使うんだろう?