2008年01月24日
夏目漱石『門』
『三四郎』『それから』に続く、前期三部作の最終作。
内容(「BOOK」データベースより)
「誠の愛」ゆえに社会の片隅に押しやられた宗助とお米は、罪の重荷にひしがれながら背をかがめるようにひっそりと生きている。宗助は「心の実質」が太くなるものを欲して参禅するが悟れない。これは求道者としての漱石じしんの反映である。三部作の終篇であると同時に晩年における一連の作の序曲をなしている。
上に引用したあらすじを読んで逆に俺が驚いているのだが、「誠の愛」の話だったのか。
とにかく前半の空気感が素晴らしい。「社会の片隅」で慎ましくも寂しく暮らす二人の男女が主人公なのだが、まとわりついて離れない、だが重苦しくて息が詰まるほどでもない、不気味に漂う「暗さ」の按配が最高にイイ。淡々と進む日常の中に、匂い立つ陰惨のリアリティ。だが読んでみると、ちっとも暗くないのだよ。むしろ、ほのぼのしていると感じるくらいなのだ。が、そこにちらりちらりと過去に起こした「罪の重荷」の余波や困窮、心の行き違いが色を滲ませる。このバランスが実に良い。生活に染み込んだ罪過の意識。
展開がやはり上手い。さすが新聞小説作家。前半の、明治の生活感あふれる中に匂い立ってくる陰惨のリアリティ、その根源は何だ? この奇妙な夫婦の裏に何がある? それが徐々に解き明かされていく感じ、どんどん読み進めてしまう。上手い。このままの筋で戯曲化して十分に舞台に耐え得る。
冒頭で、「誠の愛」の話だったのかと驚いた、と書いたが、確かに愛の話である。漱石お得意の三角関係の話なのだが、『こころ』と奇妙で微妙なリンクを描いているようであるし、『三四郎』『それから』との関連は指摘するまでもないことだし、漱石はよほど若い頃の三角関係の思い出(どうやら大塚楠緒子という女性との間にあったことらしい)に苦しめられ続けたのだろうなぁ。
展開の突飛さがまたいい。Wikipediaには
宗助は唐突に鎌倉に参拝、本来ならば最も緊張感がある場面となるべきであろう、安井の出現が遠くの出来事となってしまい、結果として「それから」で見られたような大きなクライマックスを持たずに終焉を迎えてしまっているが、これは漱石の病状の悪化が原因であるといえる。
とあるが、いやいや、この作品はこれでいいのだ。普通の人間、普通の生活には、クライマックスなどありはしない。人生は、それからそれへと続くのだ。最後の宗助とお米の会話がいい。
「本当にありがたいわね。ようやくのこと春になって」
「うん、しかしまたじき、冬になるよ」
クライマックスとしてはこれで十分。上記の台詞がややドラマチックに過ぎる響きと感じるほど、さらさらと流れ行く日常を描いているだけに、この控え目な落とし方でも十分に胸を打つ。すでに解説で柄谷行人が指摘していることだが、これは『道草』へと続く系譜の幕開きを告げる、「片付かない」物語の文学なのだ。参禅して心すっきりガツンと晴れるなんてこともないし、安井と対面して悪罵の応酬と和解の到来なんて展開は到底あり得ないし、お米が最後の流産をして自分も死ぬなんてのもちと違う。人生では、片付いてしまうことの方が少ないのだ。
『三四郎』の“それから”を描いたのが『それから』、『それから』の“それから”を描いたのが『門』とよく言われるが、『門』の“それから”は何だろう? と考えると、いくらでも物語は浮かぶだろう。死という唐突な終演がやってくるまで、宗助とお米の声にならない阿鼻叫喚の生活は続いて行く。
「誠の愛」の話という形容もあながち間違ってはいないが、「生活」の話なのだろうなぁ、と今になって思う。結構なお手前でした。
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