PLAYNOTE 菩提樹の根方で

2007年12月31日

菩提樹の根方で

[雑記・メモ] 2007/12/31 18:45

あ。

菩提樹の根方で

菩提樹の根方に座り始めてはや十五年の年月が過ぎたとき、僧侶は初めて空腹を感じた。気のせいかしらと首を傾げ、はたとまた気がつく、完成された美しさに統合された結跏趺坐の姿勢を崩したのもまた、十五年振りであったことを。

長く半眼で、見えども見んとせず、聞こえども聞かんとせず、ただ目蓋の裏に広がる闇の中心に意識を集めていたはずの自意識が、めきめきと目覚めていくのを感じた。すべては等しく無価値であることを学び、眼球に浮かぶ色彩のドットの中に森羅万象のまばたきを感じることで、輪廻転生の頚木から逃れかかっていた私の心が、開かれた眼球を焼く広大無辺な空間の中に投げ出されたことをよくよく観察してみると、改めて凡俗なる驚きに心が満たされていくのを感じた。そして己の卑小さ、文字通りの卑小さが思い出されてくる。私は盗人であった。私は好色であった。私は傲岸不遜であった。私は牛馬であった。私は人間であった。

蒼空を漂う蝶を見た。飛ぶと言えば真を欠く、ただ風に流されているようにしか見えぬ。これ、そこの、と声を掛けてみると、そのまだら金色の蝶は一言、電車の時間に間に合わないから、とだけ答え、風に流されるその飛翔を続けた。

僧は、ならばと思い、立ち上がろうとするが、足は萎え、下半身はとうに腐っており、立つこともままならない。姿勢を崩し前に倒れると、地を這う蟻と目が合う。これ、そこの、と声を掛けてみると、爪が伸びすぎてしまったから銀行へ行くのだ、とだけ言い残し、蟻はせかせかと立ち去ってしまう。遠くでホオジロの鳴く声がするが、その声すらもすぐに遠ざかってしまう。

ならばと思い、手で這いこの場を立ち去ろうとするが、両手は既に筋肉を失い、骨と皮だけになっている。辛うじて首を右へ旋回させると、遠くからこちらを眺めている一匹の小鹿が目に入る。これ、そこの、と声を掛けてみると、サファイアブルーの小鹿の瞳から淡いピンクの涙が落ちて、その頼りなげな小鹿は草を蹴って駆け去ってしまった。そして静寂が聴こえる。

移動の手段を奪われた僧は、雨漏りが床布に染み渡るように、絶望が髪の毛から爪先まで行き渡ることを感じたが、だがもう一度、ふと己の身体に意識を馳せ、ゆっくりと総身を観じて見れば、その髪の毛も爪先さえも、もう存在してはいなかったではないか。では顔は、頭は、この瞳は? 私は今、のっぺりと紺碧の色を広げた蒼穹と、眼前にだだと広がる緑、その中にぽつりぽつりと咲く菫を見ている。しかし、この顔、頭、瞳ですら、本当に実在するかどうかは怪しいものだ──。

そこまでとくと考えて気を取り直した僧は、右手をつき膝を立て身を起こし、菩提樹の根方を後にした。取り残された青と緑だけが彼の連れ合いだったが、もう少し歩けば、風に流された蝶や爪の手入れに赴いた蟻、落涙した無言の鹿とも出会えるだろう。一歩一歩、足裏に感じる若草の感触を味わいながら、僧は歩いた。足跡の変わりに、真っ赤な血が草の葉を湿らせていた。涅槃はすぐそこである。