PLAYNOTE A4演劇学講座No.02 - 「演技=嘘」という嘘

2007年12月06日

A4演劇学講座No.02 - 「演技=嘘」という嘘

[演劇メモ] 2007/12/06 14:55

CoTiKで配るA4演劇学講座の第二回。今日は演技論です。A4で語れる演技論なんかありゃしないので、随分乱暴なまとめ方だし、演技もそりゃあ人による、作品による、演出による。ここに書いていることは完全にスタニスラフスキーの流れを汲む発想で、マジ気で演劇を勉強する人は、それだけじゃあないもんだよ、とわかっても欲しいんだけど、とりあえずの一般論として書いています。

A4演劇学講座No.02 - 「演技=嘘」という嘘

日常会話では、「演技をする」とか「芝居を打つ」と言うと大抵、嘘をつくことの慣用表現として用いられます。演劇もよく、フィクションであるとか、虚構であると言われます。しかし、感動を呼ぶ演技、世界に入り込める演劇は、実はその反対です。

「演技をする」は、嘘ではなく、本心を言うことです。例えば、鈴木さん(仮名)が次のような台詞を言ったとします。「俺はロミオだ、ジュリエットを愛している」。もちろん鈴木さんはロミオではないし、鈴木さんはジュリエットを愛していません。事実としてはこの台詞は正しくない。

しかし、俳優が自分の役の人格や、置かれている状況を底の底まで信じ込めたとき、また、自分の自意識を捨て去ることができたとき、先ほどの台詞は、事実としては正しくないが、心情としては真実、というものに生まれ変わります。そして、演劇においては事実であることよりも真実であることが重要なのです。事実の羅列は人の心を打たないけれど、真実が零れ落ちる瞬間に、人は心を打たれます。演技をするとき、俳優は、嘘をつくのではなく、自分にとって本当のことを言う。

そういう演技が積み重なっていくと、演劇もフィクション・虚構の枠を超えます。先ほどの台詞の例と同じように、事実としてはフィクション、虚構のままですが、観客にとってその劇世界が信じ込めたとき、それは現実や事実より強烈に人の胸を打ちます。

以前、とある演劇学の教授がこんなエピソードを紹介していました。「あるミュージカル俳優は、突然歌い出したり踊り出したりしているが、自分たちの演技をリアリズムだと思ってやっている」と。ここに芸術を語る上で重要な論点が潜んでいます。

芸術において、事実であること、自然であることは特に重要ではありません。重要なのは、説得力を持ちうるか、真実らしさを獲得できるか、その点のみ。もちろん、説得力を持たせるために事実ありそうなエピソードを入れるとか、自然に見せかけるということもありますが、事実であるとか自然であるというのはあくまで手法の一つ。

"real", "actual", "natural"という語の違いを理解することは、これらの差異を理解する上で一助になるでしょう。”real”は真実。「真実」という語の定義も難しいものですが、こと演劇に関しては役の存在や場の状況を確信できる、本人にとってtrueなもの、と捉えればいいでしょう。”actual”と言った場合、「実際の」「事実の」という意味です。これは、事実としてそうであったかどうかということが問題であり、”real”のように真実であるかどうかはまた別の話。”natural”はご存知の通り、「自然な」という意味です。

自分にとって確信できる演技をすることと、事実に基づいて演技をすること、自然に見える演技をすること。どれも近いように見えて、力点が全く異なります。お客さんにとっても、観た演劇が、信じられるものなのか、事実として伝わるものなのか、自然に見えるものなのか、この三つの感じ方にはかなりの違いがあります。

サンフォード・マイズナーというアメリカの偉大な俳優指導者は、こんなことを言っています。
「俳優であることをやめろ。演技することをやめろ。」

心にもないことをする、「ふり」で演技をする、上手く演技しているように自分をコントロールする。その先に、真実の感情、真実の行動は生まれて来ません。

人間の意識には意識と無意識があり、筋肉には随意筋と不随意筋があります。自分をよほどうまく「操作」したところで、無意識と不随意筋を操ることは絶対に出来ません。しかし、感情や行動を無意識と切り離して考えることはできないし、反応や動作を不随意筋と切り離して考えることもまた不可能です。

そして、観客の目は肥えています。日常、嘘をつく人間をごまんと見ながら暮らしている中、人の嘘を見抜くことにかけては人間はプロフェッショナルです。どんな巧妙な嘘も人は見抜き、不穏な態度に裏の心情を読み取る。そんな観客の目に四方から囲まれたとき、俳優が出来ることは、嘘をつくことではなく、自分にとって本当のことを言うことだと思うのです。