PLAYNOTE 明治大学文化プロジェクト2007『オセロー』

2007年11月10日

明治大学文化プロジェクト2007『オセロー』

[演劇レビュー] 2007/11/10 02:31
チラシ
チラシ

今思えばイギリスからの帰国後、自分のスタートラインは明大の文化プロジェクトでやった『マクベス』だった。那保ちゃんともピロキとも遠ちゃんとも須崎とも光とも西村とも山Pとも、ここで知り合った仲間。今年の文化プロジェクトで演出をやっておる繁富は、俺が演出した『マクベス』での老シーワードで舞台デビューを飾った男であり、八月にこの『オセロー』の座組のためにワークショップをやったりもしたもんだから、当然初日に行くぜと思って初日を観に行った。演劇が一番わかるのは、初日ですから。

明治大学アカデミーコモン・メインホールにて。

三日もWSやったもんだから見知った顔も多いし、過去の自分の労苦を思い起こしたりもしていろいろ複雑な感慨はあるが、「学生だしね」とか「みんなうまくなったね」というスタンスの評論はムカつくだけであろうから、無関係な一般客として観た気で感想を書こうと思う。

まず、客席入ってすぐの舞台の見え方が果てしなくダサいのがマイナスポイント。緞帳あげた状態で、舞台が見えている以上、しっかり「見せている」という意図を持って絵を描くべきと思う。客席からのこぼれ明かりで何となくうすぼんやりと見える舞台。一本明かりを落としておくだけで随分印象は変わっただろうに。表情のないセットがどんと置いてあるだけ、という状態は、意図が見えない。客入れ中にイアーゴーとロダリーゴーの二人が出て来て、開演まで何やらごにゃごにゃやっていたが、あれも意図がよくわからなかった。ぬるっとした。

芝居全体のテイストとしては、非常にセンチメンタルなオセローという印象。役者の芝居もセンチメンタルで情緒的だが、泣きにせよ絶望にせよ、かかるBGMがその印象を倍加する。うーん、ちょっと音の使い方が安い気がする。ハリウッド映画やTVドラマならアリなのだろうが、オセローという高潔で実直であるがゆえに悲劇を招いた人物の芝居を、世話物のレベルにまで引き落としている。それが狙いならわからないでもないが、どうにも安くて嫌であった。

センチメンタルであるということは、裏を返せば感情が伝わりやすいということで、そういう意味ではオセローの嘆きやイアーゴーの闇はよく伝わって来た。ただ、前半がイアーゴー寄り過ぎて、オセローをもっと主軸に観たかった。イアーゴーは魅力的な人物だが、悲劇の主人公ではあり得ない。完全にイアーゴー寄りの演出ならそれもそれで見応えはあるのだろうが、煮え切らない感じがしたため、どっちつかずのぼんやりした印象。

以前自分がとある映画会社のプロデューサーに言われたことだが、二時間モノで伝えようと思うものは、三行以下にまとめられるようにしなさい、という言葉があった。正しいと思う。そうでなければ焦点が定まらない。無論、書き手・演り手が三行分にフォーカスしても、観客はそれ以外の思いを描いていくものだが、やる側が三行にまとめないと、芝居全体の骨組みが立たない。もやっとする。そういう意味で、オセローなのかイアーゴーなのか、それとも人物を飛び越えたもっとユニバーサルでどでかい何かを描きたいのか、そこをフォーカスすべきだったのでは。

ただし、焦点が決まっていない反面、個々の役が持つ情念はよく伝わって来た。そこはよかった。一人一人が苦悩し迷っている様、そこは見て取れた。下手をすれば端役とも取られ兼ねないビアンカやエミーリアまできっちり人物の輪郭がわかったのはよかったし、よく稽古場で練ったのだろうと思う。戯曲の顔と役者の顔を知っている自分だからこその楽しみ方かもしれないが、そこまですっからかんだといよいよクズ芝居なので、そこは一安心。

イアーゴーは破滅的に声が小さく早口で台詞が拾いづらかったのが悔やまれるが、暗く揺れる心の炎、その情念のようなものは拾えたし、キャシオーの嘆きや怒りにも説得力はあった。オセローの急落していく様は、演技を煽り過ぎていてやや過大表現な感じがしないでもないが、大劇場に見合うだけの大きな表現をしていた点は◎。ずいぶん味付けが濃かったので、もっとシンプルに見せて欲しかったとは思うが、声にしろ姿にしろ後半ではきっちり芝居の芯を取っていた点はさすが。デズデモーナは本当に清楚で純朴な乙女、という印象はよく出ていたと思う。もう一息、女としての芯の強さ、品格のようなものがあれば。何気にエミーリアとビアンカがいい芝居をしていたと思う。自分は端役、という言葉は嫌いだが、脇役という言葉は嫌いではない。脇を固める、という連想ができるからだ。そういう意味で、エミーリアとビアンカはしっかり脇を固めていたと思う。

休憩10分込みで3時間10分と長大であったため、もう少し展開・見せ方にスピード感があればよかったな。暗転なんかしなくていい、どうせ完全暗転してないんだから。暗転を演出効果として“見せる”意識や、エリアライティングで空間を切ったり、立ち位置や姿勢で象徴や印象を見せたり、SEや歓声の持つ驚きや急転を活かしたり、という芝居心がもっとあれば、より芝居としての輪郭がくっきりしたし、観やすかったんではと思う。まぁ、あんなカバみたいなデクノボウホールを建てた明大が一番悪いのだが、幕を開けることを引き受けた以上、言い逃れも許されまい。しかしカバみたいなホールだな、あれは。

だらだらと書いたが、今からできる最大の改善点は、きっちり声を出すことではないか、と、小学生でもできそうなダメ出しが最後に思い立つ。が、シェイクスピアってそうなんだよなぁ。演劇学をかじった人ならわかるだろうが、シェイクスピアは視覚ではなくて聴覚の演劇なわけで、テキレジ(台詞のカットや改変)もなし、スペクタキュラーな演出もなしでやる以上、きっちり声を出すことがどれほど重要か。プラス、客が声を「拾う」のではなく、客の鼓膜に台詞が飛び込んでくるくらいの声量があれば、「ん? 今何つった?」とか、「え? 意味わかんねかったけど、聞き間違い?」みたいなもやもやがなくなる。シェイクスピアのレトリックに慣れ親しんだ自分でさえ聴き取りづらかったのだから、演劇を見慣れていない人にとってはつらいはず。声を出す、それだけで客は見やすくなるし、芝居の中身に集中できる。加えて役者も、どういうメカニズムだかは知らないが、声を出すだけで芝居が乗ってきたりする。声を出すべき。プラス、声量のバランスを取るべき。オセローとエミーリアとロダリーゴーは大きくて、他が小さい、だと、逆に聴きづらいから、バランスを取りつつ底上げすることが必要だと思う。

そこさえ直せば、すでに述べた個々人の情感、それがしっかと伝わって来て、人間模様の様々に揺れる『オセロー』が見れるのではないかしら。役者の一人一人が前向きに、役を愛している空気は伝わって来たのだから、そこを大事に、もっと自分の役を愛してやるべきだと思う。稽古場では演出まじえて散々溺愛したのだろうから、今度は客にも溺愛させてやればいい。今日の空気だと40点がいいとこという芝居だったが、いちいち気になる足元灯とか聴こえない台詞とか継ぎ目が丸見えの蹴込みとか、そういう“雑念”の入る様を差っ引いていけば、もっと登場人物寄りに見せることができるんじゃないかしら。そうすれば70点は行く(俺が年間で70点以上をつける芝居は数本しかないので、70点は随分な高得点、そういう評価基準です)。そうすれば、勝ちだ。

終演後、一部の人としか話せなかったのが残念。三日ワークショップをやっただけだが、意外と覚えているものだ。まだ二日あるそうなので、ここからの伸びに期待したい。俺はもう観れないけどね。お疲れ様でした。

コメント

投稿者:ちひろ (2007年11月11日 01:18)

やほおおおおおおい☆
あたし楽日にいくよん

投稿者:Kenichi Tani (2007年11月11日 14:57)

やほおおおおおえ★
今日だな。行ってらっしゃーいヽ(´∇`)ノ

投稿者:シゲトミ (2007年11月15日 08:45)

ご来場、ありがとうございました。

あれでも詰め込みすぎ。。。
最初に考えていたのに比べてわかりやすくするため、かなり簡略化したつもりだったのだけど、それでも考えすぎなんだろうなぁ。
音響はわかりやすくするため、わざとメロディラインのあるものを使いました。ただ言われてみれば、たしかに世話物のレベルに落としてしまっていたのかも。初めて芝居を観たような人からは好評だったけど、わかりやすさとは諸刃の剣だわ。

「センチメンタルな『オセロー』」
まさにそのとおりです。演出がセンチメンタルな質なもので(笑)。

役者もスタッフも頑張ってくれたから、良い芝居になったけど、演出レベルで足りないことも多かった。
演出は難しい。

演出に決まったときからWSなど半年間お世話になりました。
ありがとう。