PLAYNOTE とんぼの本『やさしい「禅」入門』

2007年05月16日

とんぼの本『やさしい「禅」入門』

[読書] 2007/05/16 20:47

以前 d-labo でふと手にとって激しく心惹かれ、ISBNを控えておいた本。Amazon図書券が手に入ったので買ってみた。

禅! 高校生の頃ヘルマン・ヘッセと日本史の川端先生の影響で(←笑)仏教思想に一時期ハマったことがあり、いつかは一度密教修行か座禅修行はせねばなるまいと思っていたのだが、とりあえず手軽にできる座禅について詳しく書いてあったので購入。

最初の十数ページで正しい座禅の仕方を懇切丁寧・写真入りで紹介。実に丁寧かつ明晰な説明で、間違えようがない。

やってみた。半跏趺坐で背をすっと伸ばし、手を法界定印に組む。深呼吸(「吐く」を強く意識)、目は見えども見ず、耳も聴けども聴かず、ただ「何もしない」。これを一炷(約40分)

高校生くらいまで少林寺拳法をやっていたり、前述の通り一時期仏教思想にハマったりした経緯もあるため、今でも「瞑想」や「黙想」は我流ながらやることがよくある。が、ちょっと触れてみただけで、「座禅」と「瞑想」「黙想」は全く違うものなのだな、ということがよくわかった。

自分のインプレッションで語ると、瞑想は「聴く」感じ。瞑想中って、イメージとしては何かを意識で追っ掛けてるんだけれど、「考える」とか「思う」というとちょっと違っていて、浮かんで来る思念や研ぎ澄まされてくる感覚を「聴く」、その中に見つけていく感じなのだな。瞑想の場合は意識や思考が中核にあるけれど、主体性はあんまりない気がしていて、むしろ受動的な感じがする。
これに対し座禅は、「  」な感じ。…書けない。「捨てる」と言っても違うし、「本当の意味で一人になる」とかもごたごたしていて全然違うし、「自然」(Natureじゃなく)は違い感じがするがそんな境地に自分はいないし。元々禅は不立文字と言って、言語では伝えられないものなのだそうだから、「  」もあながち間違っていない、…といいな。

道元は禅についてこんなことを書いたそうだ。

それ参禅は静室よろしく、飲食節あり、諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を管することなかれ。心意識の運転をやめ、念想観の測量を止めて、作仏を図ることなかれ。あに坐臥にかかわらんや。

これがどれほど難しいことか。自分にせよ、自分以外の何かにせよ、「問うこと」を基本姿勢として来た自分にとって、非常に居心地が悪く、同時に新しい感覚のある体験であった。

脱線し過ぎたので、本の話に戻そう。座禅講義をとっくり25ページやった後にはいろんな企画記事が並んでいる。ライターによる座禅体験記。精進料理の紹介とその禅的意味(これが意外と面白かった。食べること、作ることもまた禅)。道元の生涯と思想の紹介を軽く。その他禅に関する単発記事が何点かあり、まぁまぁ幅広い話題で飽きなかった。欲を言えばもう少しディープに突っ込んだ記事が読みたかったな。確かにこれは「やさしい」。

座禅講師の南直哉師の言葉から、印象に残ったものを。

(座禅において重要なのは)ある心身状態において、人間の自意識や自己認識が崩れるということです。自己という存在が出来合いのものだということが分かるということです。(中略)座禅をした時に、私はこのことに非常に驚いたわけです。自分とか、自意識とか、そんなものどうでもいいんですよ。自分という言葉の表すものに、ほとんどまともな正体がないことがよくわかる。

たまにテンション上がると「梵我一如!」とか叫んでいる自分だが、そういう馬鹿にした感じではなくて真剣に仏教哲学について触れてみたいなぁと久々に衝動を掻き立てられる本であった。今度マジで一度どこかの仏寺に参禅修行に行きたい。都内でも結構やっているようだし。