PLAYNOTE ラース・フォン・トリアー監督『ダンサー・イン・ザ・ダーク』

2006年11月27日

ラース・フォン・トリアー監督『ダンサー・イン・ザ・ダーク』

[映画・美術など] 2006/11/27 11:55

主人公が盲目と聞いたので観た。以前友人も絶賛しており観ねば観ねばとは思っていたのだが。こないだ観てえらく感動した『ドッグヴィル』のラース・フォン・トリアー監督、ビョーク主演。2000年公開。

シロップとクリームだらけのフルーツ・ケーキは、かえって胸が悪くなる。自分が「いわゆる」ミュージカルが嫌いなのは同じ理由からだろう。甘くもあるがほろほろ苦い、シフォン・ケーキは割と好き。そういうものが観たいんだ。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、絶望的に低く重いストーリーに、ビョークの重く美しい歌声と白昼夢的なダンスをあしらい、絶望的な悲劇に崇高さを与えている。さもなければこんな、苦くて不味いだけのストーリー、口に入れる気はしないだろう。

舞台はアメリカ。遺伝性の視力障害を持った移民の中年女性が主人公。昼は工場、夜は内職、必死に働き、息子の目の手術代を貯めている。手遅れにならないために。彼女の心を慰めてくれる唯一のものはミュージカル。ミュージカルでは絶対に悲しいことなんて起こらない。

しかし驚くべき構成力。最初、あまりにも日常的で瑣末的なことばかり描かれていて、うーんこれは退屈かも、と思ったのだが、すべて複線として回収されており、目を丸くした。それはそれはもうまん丸に。(@△@)←こんなの

『ドッグヴィル』でも思ったが、ラース・フォン・トリアーという作家は実にフィクションの構成がうまい。見せ方としてはちっともフィクション臭くないくせに、鳥瞰してみるとフィクションの作法を驚くほど丹念に的確に抑えている(ここで言うフィクションの作法とは、大雑把に言えば収斂のための展開、ゴールのための場面や言葉の切り取り方、とでも言えるだろうか。自然主義やその極地としての私小説・ドキュメンタリーではなく、構成され直した現実や観念としてのフィクションの芸術性をこそ僕は評価したい)

例えば。移民という設定は、裁判のシーンで米国の陪審員制の欠陥を露呈する。前半、貧しくも幸福な日常を描くために挿入された(と思っていた)自転車のエピソードまで、同じく裁判のシーンで再度歯車として再利用されており、唸った。失明のタイミングまでパーフェクトだ。神がかっている。

ビョークについて。
これが例えば日本で歌手やアイドルをフィーチャーしたら、こんな汚い撮り方はしないだろう、という画面が多い多い。だが、度を越えた悲しみや苦しみを誠実に撮ろうとすれば、こうせざるを得ない。いわゆる「Starring ○○」みたいな使い方ではなく、見事に映画を構成するためのピースとしての起用(いや、この映画の場合、彼女こそ幹であり同時に枝葉でもあるから、ピースという言い方は相応しくはないのだが)。夢見勝ちで少し頭が弱く、純朴で芯の通った女。盲目というハンディキャップと、頑固とも言えるほど堅い信念は、世界を彼女にとってとても生きづらいものに変容させてしまった。…おい、こんな微妙な匙加減の役、専業役者でも出来る奴少ないだろう。いたら出て来い、是非あなたの出演作を観させて頂きます。

ミュージカル・シーンについて。
とくに自分がああだこうだ言う必要はないと思うので何も書かないが、とてもよかったですとビョークと監督に伝えたい。ついでに握手して下さい。

* * *

いろいろ書きたかったんだけど、いい映画だったのであまり書くことがない。自分の貧しい文才で誉めそやすのも野暮なこと。よかったです、感動しました、それって本当は最高の賛辞で、持って回った小賢しいレトリックは、「ええもん」の前ではとても無力だし、うざい。

一般成人男性および一般成人女性に比べれば、何十倍もグロテスクなものや救いのないものを観たり読んだりしている自信はあるし、純粋にこれよりも凄惨で残酷なものならいくらでも挙げられるけど、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』には、心の一部をじわり・じっくりと抉り取られるような痛みがあった。巧みに配置されたミュージカル・シーンの清廉で幻想的な美しさがなければ単なるペシミズムに陥っていただろう。おすすめ。