PLAYNOTE ジャック・ケッチャム『隣の家の少女』

2006年06月25日

ジャック・ケッチャム『隣の家の少女』

[読書] 2006/06/25 02:07

読後感が最悪で、「泣けた、よかった」ではなく、「吐きそうになった、もう二度と読みたくない」、読者に人間の負の面をこれでもかと味わわせる陰惨・凄絶な小説を、「劇薬小説」と名付けてランク付けしている奇特なサイトがある。そちらで長らく一位をキープして来たこの『隣の家の少女』。誘惑に負けてアマゾンで購入。

…久々に強烈に印象に残る読書体験をした。大満足。泣けないかもしれないけど、吐けるかも。

ネタ元: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる: ついに「隣の家の少女」を超える劇薬を読む

あらすじを少し。適宜中略。

1958年の夏。当時、12歳のわたし(デイヴィッド)は、隣の家に引っ越して来た美しい少女メグと出会い、一瞬にして、心を奪われる。……隣家の少女に心躍らせるわたしはある日、ルースが姉妹を折檻している場面に出会いショックを受けるが、ただ傍観しているだけだった。ルースの虐待は日に日にひどくなり、やがてメグは地下室に監禁されさらに残酷な暴行を―。Amazon.co.jpより)

この小説は次の一節から始まる。

「苦痛とは何かを、知ったつもりになってないだろうか?」

この一節に心惹かれた人ならば、この本を手にとって損はないはずだ。いや、大きな損害を受けるかもしれない。人間には、一度知ってしまうと、理解してしまうと、取り返しのつかない類の認識があるものだ。上に引いた文章の数ページ後、この章の終わりで、主人公はこう述べている(一部中略)

「だが、1958年の夏、わたしたちがメグ・ロクリンと妹のスーザンと出会って以来、わたしの人生はなにひとつうまくいっていないのだ。」

つまりはそういうことなのだ。主人公「わたし」は、壊れてしまったのかもしれないし、調律が狂ってしまったのかもしれないが、また、そうでないのかもしれない。ただ一つ確実に言えることは、「わたし」は知ってしまった、ということだ。人間というものを。

展開のさせ方が本当に巧い。物語は「わたし」の回想から始まる。
ある眩しい夏の日、村の小さな小川で出会った少女に恋をして、少しずつ彼女を知ろうと、接近しようとする「わたし」。その若さに・みずみずしさに、「あーこういう時代あったよなー」と胸をキュンキュンさせているうちに、自分の身に照らし合わせて読んでいるうちに、物語のあちこちにヒビが入ってくる。その底知れず暗く陰惨な物語が本当の意味で動き出す前に、自分は完全に主人公に感情移入してしまっていた。

そう、もう逃げられなくなっていたのだ。

この後、「わたし」は、少女に加えられる虐待の数々を第一線で目撃し続ける。そこで「わたし」が感じた感情の、何とまぁ生々しいことか。

「わたし」は、ただの少年だ。TVアニメのヒーローのような勇気や豪胆さ、名探偵のような知恵や洞察を持ち合わせていないだけではない。「目撃者」であった「わたし」は、やがて「黙認者」になり、そして…。

あぁ、書きたいけどこれ以上書いたら駄目だ。序盤のキラキラ世界で「わたし」に自分を投影してしまった読者は、その後、「わたし」の人間的で健全だが弱い心が揺り動かされる度に、同じ視点から苦しみを味わう派目になる。これに関しては「わたしが知らないスゴ本は…」に素晴らしい表現があるので引用。

陰惨な現場を目の当たりにしながら、見ること以外何もできない“少年”(※主人公)と、まさにその描写を読みながらも、読むこと以外何もできない“わたし”(※読者)がシンクロする。見る(読む)ことが暴力で、見る(読む)ことそのものがレイプだと実感できる。この作品を一言で表すなら「読むレイプ」。

解説でスティーブン・キングが書いているが、汚いくらいに展開が巧い。導入の鋭さ。序盤と中盤以降のコントラスト。読者を裏切り続ける展開(次のページを繰るのが怖い瞬間がある)。残虐なシーンの最中に突然挿入される詩的な一文、あるいは背筋が凍るほど客観的な一文。スピード感のある文章。ほどよい緩急。

虐待する側の人間も、鬼や悪魔としてではなく、あくまで「人間」として描かれている点が恐ろしい。少女を虐待する少年たちは、地下室に閉じ込めた少女を虐待し終えた後、リビングに戻ってコーラを飲み、テレビを見て笑う。虐待の主犯である中年女でさえ、許されざるべき犯罪を犯しているとは言え、精神を病んだ一人の哀れな人間である。彼女に同情してしまう読者さえいるだろう。

地下室の存在を差し引けば、誰も異変に気づかないまま村の生活は回っていく。毎朝人々は牛乳を飲みトーストをかじり、新聞を読んで出かけて行く。隣の家の地下で何が起きているのか知らずに。

僕が驚いたのは、そういった見せ方のうまさ・巧みさ。そしてその筆さばきのクールさと、容赦のなさ。人間性の一端をありのままに描き、手を抜くことがない。

そう、ここに描かれている残忍さは、極端な一例であるにせよ、現に存在している残忍さなのだ。この一連の悲劇を読んでいて、僕は「女子高生コンクリート詰め殺人」(※文章オンリーだがグロ注意)を思い出していた。一人の何の罪もない女子高生をひっつかまえてきて、殴り、蹴り、犯し、火をつけ、殺した。しかも、

この頃少年Cは、家に「面白いのがいる」と知人に公言し、100人程度は監禁について知っていたと見られ、裁判記録に出ているだけで10人が強姦等に参加している。

こうだったと言うのだ。100人あまりが知っていながら、誰も通報しなかった。いや、“心理的に”“できなかった”のかもしれない。それは彼らが、この100人が狂っていたのではなく、誰もがそうなり得るのだ。『隣の家の少女』を読んだ読者には、僕が何を言っているかわかってもらえるだろう。

*   *   *

おっしゃる通り、劇薬でした。でも、いい本です。澁澤龍彦とか、これを読んで何て言うかしら。あと、正直、例の地下室の虐待シーン、俺も勃起した。後々になって「信じられないことだ」と思ったが、読んでいる最中は引き込まれるばかりだった。「わたし」と同じである。

読みたい人には貸します。でも必ず返してね。

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コメント

投稿者:U (2006年06月29日 08:57)

はじめまして。W3C検索してたらたどり着いて、読書その他の趣味が異様に一致したのに驚いて初対面で書き込みしている次第でございます。
この本読みたいです♪
映画の「鬼畜大宴会」のような読後感なのかしら?

投稿者:U (2006年06月29日 08:59)

やばい。。。これ読んでた。(解説読んで思い出した)
orz
お邪魔しました。。。

投稿者:Kenichi Tani (2006年06月29日 10:54)

W3Cも読書の趣味も合うなんて気が合いますねー。なかなかいないですよ、そんな奇妙な一致する人(笑)。

読書の趣味はどの辺が一致したんですか?

投稿者:U (2006年06月29日 19:23)

カフカ、ヘッセ、チェーホフ、サリンジャー、ニーチェ、
モーパッサン、ヘミングウェイ、ゆらゆら、ブランキー、NG、
ジャニス(イアンのほうも好き)が思いっきりかぶってます。

後は私は太宰と乙一と安部公房なんかも。
リチャードバックやキルケゴールもいけます。
なかなかかぶってるでしょ(笑)

まさかW3Cと文系が合体した趣向をお持ちの方がいるとは。
私も相当驚きましたよ。いませんよ普通。レアキャラ!

投稿者:Kenichi Tani (2006年06月29日 22:53)

あー、被ってますねー(笑)。すごいな、ここまでくると。いるんだなぁ、こういう趣味の人。何だか嬉しいです。文学趣味だけでも十分驚きだけど、+W3Cってのがさらに。

あ、ブログ発見しましたので、これからチェックさせて頂きますねー。
これだけ同じ趣味な人がどういう文章書くか興味あるので!

投稿者:U (2006年06月30日 00:39)

あ、すみません。あれ仕事が忙しくなってから全く更新してないです。。。経典も読んでないので間違ってもスコアチェックしないでね_| ̄|○ il||li

あ、私もミクシやってるので、今度友達になってくださいませ。

投稿者:Kenichi Tani (2006年06月30日 01:28)

mixiならこのページの右にリンク張ってあるのでぜひ!!

投稿者: (2010年02月09日 09:25)

奇特ってよい意味なんですけど、
児玉清がくしゃみするよっ