PLAYNOTE 栗山民也演出『母・肝っ玉とその子供たち』

2005年12月09日

栗山民也演出『母・肝っ玉とその子供たち』

[演劇レビュー] 2005/12/09 01:44

やっぱりブレヒトは観ておきたいので観に行った。大竹しのぶ主演。新国立劇場中ホールにて。

単刀直入に言って、不満。栗山民也が何をしたかったのかよくわからない。ナレーションの女性を強調したりオーケストラピットと役者を絡ませたりと言った異化効果を狙った演出と、カタルシスを呼ぶような叙情的な演出・演技が混在。結果、どっちつかずになってしまった。感情移入して観るにはブレヒト的過ぎ、肝っ玉の選択とこの世界に対して理性的な判断を下すには情緒的過ぎる。
(栗山民也は自分なんかよりよほどブレヒトに精通しているはずだから、何かしらの意図はあったのだろうけど。)

興味深かったのは、一緒に観に行った三名に感想を聴くとかなり感情移入して観ていたということ。カトリンの死に様やラストなど特に涙腺を刺激されたようだ。『肝っ玉~』の上演史を紐解けば、自然主義的に演出されてカタルシスばりばり、という上演例はごろごろあるし、作家の意図とは違う解釈を演出家や役者が選ぶことは現代では批判されるどころか独創的な再解釈として評価される傾向にあるから、今回の上演も感情移入させたって全然構わないのだけど、そう腹を決めたならもっとうまくできたはず。中途半端に異化効果が入ってくるからどっちつかず。

※ブレヒトは単なる劇作家ではなくて独自の理論を持ちそれを舞台化するために戯曲を書いた…という前提があるから、ブレヒト戯曲の解釈の問題はそう簡単ではないのだけれど。

歌の挿入も個人的には違和感ばりばり。ブレヒトが意図した「ソング」は、劇の流れをぶったぎりそれに解説や注釈を入れることだったのだから、ブレヒト的にやるのなら今回のように前奏に台詞をかぶせながらグラデーションするように歌に移り変わってはいけないはず。ブレヒトを捨てて現代的解釈を選ぶのなら、わざわざパウル・デッサウの曲を使う必要もなかったように思う。ここでも栗山が何をしたかったのかわからない。

中途半端にブレヒトの理論を知っているがために、つまらんことが頭をよぎって純粋に楽しめなかったが、やっぱり自分は栗山民也は苦手なのだなぁということがよくわかった。「反戦」というテーマばかりシンプルに浮き立たせてしまった戯曲解釈もそうだけれど、それ以上に舞台の絵面に対する美的感覚という面で感動できなかった。ラスト、十字型の墓碑が林立する中を肝っ玉の荷車(幌を取り外したその後姿はジープのようなディテールを表す)が一直線に駆けて行き、その向こうには現代に向けてカウントされていく日付が、とか、劇が進むにつれてひび割れ崩壊していく舞台、とか、象徴や抽象ではなくて説明的であり、意図が人を馬鹿にしているのかというくらい前に出ていて面白くなかった。

驚いたのは谷川道子の新訳。ブレヒトってもっと読みづらくてカタい文だったはずなのに、役者の力量もあるだろうけど、すごく自然で生気のあふれる台詞に仕上がっていた。いわゆるブレヒト的にやるのならあえて翻訳を非口語的にするのも面白い気がするが、今回の耳に優しく感情の乗せやすい訳はやはり素晴らしい。拍手。

期待していたワダエミの衣装は今一つ。アメリカ陸軍みたいな迷彩服を突っ込むのとか、安易に現代と繋げようとしていてどうも…。肝っ玉の底抜けに明るい衣装の意図もよくわからなかった。

うーん。楽しめなかった。やっぱブレヒトの面白さは自分には実感できない。戯曲としてはそれほど面白いものじゃないと思うし、演出論としてはもう死に体だと思うのだけれど。あと自分は栗山さんとの相性が悪過ぎるように思う。

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