PLAYNOTE 黒と赤の戯曲『マクベス』

2005年09月16日

黒と赤の戯曲『マクベス』

[演劇メモ] 2005/09/16 06:15

戯曲には色がある。比喩としての色ではなく、戯曲を読み情景を脳裏の画布に描いたときに浮かんでくる色彩としての色が。『ロミオとジュリエット』は燃えるような赤、『オセロー』は嫉妬の緑、『ハムレット』は高貴だが同時に陰惨で狂気を思わせる紫、『テンペスト』には何故だか透き通った青を僕は思う。

では、『マクベス』は?

まず漆黒の闇が浮かんでくる。漆黒は、光の三原色で表せばすべてゼロ、無の色だが、色の三原色ではすべての値が極限値をとる、パレットを描きまわし尽くした混沌の色である。『マクベス』に感じる漆黒は、はじめは後者の諸色混合たる黒であり、幕が降りたあとに残る黒は前者の寂寞たる黒だ。主人公マクベスは、人の世の騒乱から歩み始め、混乱し錯綜した心象風景をくぐり抜け、最後には完全なゼロに辿り着く。「人生はたかが歩く影」、そう語るときのマクベスの心は信じられないほど静謐で、覚悟や諦念というより悟りに近いものを感じる。

次に浮かんでくる色はどす黒い赤である。『マクベス』は、どう言い逃れしようとも血の芝居だ。戯曲中ではオフ・ステージで決行される例の殺害の場面だが、マクベスと夫人の後悔と恐怖を考えるとき、なまぬるく手にまとわりついた血の色を、匂いを、温度を我々が感じなければ、あの強烈な感情は理解できない。僕は高校生の頃、演劇部での恩師を癌で失い、葬式へ行ったことがある。長い闘病生活の末痩せ細った先生の身体は、はっきりと腐臭を放っていた。内臓がもうダメなのだ。その体験があったせいか、今も僕の中で死や病というものはいくら美化してもしきれないものであり、死を思うときそれは腐臭と共に記憶から蘇る。伝え聞き理解することと、知覚し体験することはまるで別の経験だ。劇に話を戻すと、彼女があれを忘れられなかったのは、その手を濡らした血の色と匂いと温度とを、体験として認識していたからである。

陰鬱な話が続いたが、どう取り繕っても『マクベス』は爽やかで清々しい芝居ではない。四大悲劇の中には精神的な意味合いでマクベス以上の地獄を味わった主人公が他にいないではないが、マクベスは戦争に始まり戦争に終わり、その戦の間のわずかな時間でさえ暗殺の刃が閃いている。残虐さ・猟奇性という意味では、悪名高い『タイタス・アンドロニカス』に続くシェイクスピア作品である。

だが、その生々しい血の色は、劇が進むにつれて徐々にその色を薄めていく。そして最後には、光がすべて消え失せて美しく透き通った静かな闇に落ち着く。『マクベス』は殺害を扱った芝居であると同時に、自らの死と向き合うことを扱った芝居でもあるのだ。僕は作家の人生と作品を過度にリンクさせて考証する出歯亀的なテキスト研究を嫌忌しているが、『マクベス』に関しては、シェイクスピアが己の老境を意識して、――いや、言葉を濁すのはよそう、自らの死を意識して書いたとする説には肯首けてしまう。混沌の闇に咲いた血しぶきの赤い花がゆっくりと透徹な闇に消え、幕が降りる。その暗闇の中、人間が経験し得る最も暗く荒涼とした風景の極点で、自らを待ち受ける死と真正面から向き合ったマクベスの姿が人の心を打ち続けてきたからこそ、これほどまでに残虐で救いのない悲劇が四百年もの長きに渡って愛されてきたのだろう。

今回の上演にあたっては、明治大学関係者をはじめ様々な方のご好意にあずかりました。この場を借りてお礼申し上げます。そして何よりも、ご来場頂きましたお客様へ心から御礼申し上げます。『マクベス』というのは実に呪われたお芝居で、マクベスの怨念だかシェイクスピアが実在の儀式から引用したとも言われる黒魔術の呪文のせいだか知りませんが、昔から主演俳優や演出家が事故ったり死んじゃったり、暴動が起きたりセットがぶっ壊れたりとそれはもうえらい騒ぎなんですが、もし初日まで生きていれば、客席のどこかからこっそりありがとうを呟いていると思います。生きてなかったときのために、ここにはっきり書いておきます。ありがとう。

本日はご来場頂き誠にありがとうございました。携帯電話・PHSの電源をお切りになってご覧下さい。ラブ&ピース。

(※この文章は、明治大学文化プロジェクト2005年公演『マクベス』パンフレットに『ごあいさつ』と題して収録されたものの再掲です。)