PLAYNOTE 血と悪夢と『マクベス』

2005年05月15日

血と悪夢と『マクベス』

[演劇メモ] 2005/05/15 05:56

「血だ、もっと血を。シャロンの流した血はこんなものじゃなかった」

一九七一年公開の映画『マクベス』の撮影中に、監督のロマン・ポランスキーが叫んだと伝えられる言葉である。妻・シャロンの惨殺から二年、事件後初めて撮った作品がこの『マクベス』だ。劇中、マクベスが血の呪いから逃れようとして逆に血の海に踏み込んでいくように、ポランスキーは己の記憶と歴史にこびりついた血の残像と悪魔の影を洗い落とさんとしてあえて血みどろのショットを求めたのではないか。そんな想像をさえ誘う、鬼気迫る言葉である。

ポーランド系ユダヤ人として生を受けたポランスキーにまず血と悪魔が挨拶を交わしたのは、彼がわずか七歳の頃だった。一九四〇年、ナチスドイツのポーランド侵攻の翌年のことである。ポランスキー少年は父の尽力により幸運にも強制収容所送りを逃れたが、アウシュビッツは彼の母の血を吸った。ダビデの星を携行させられ、悪魔と罵られたのは彼も例外ではなかったであろう。

地上の地獄と呼ぶほかない当時のポーランドを生き延びたポランスキーは、映画監督として頭角を表し、ハリウッドで幸運を掴んだ。六八年、『ローズマリーの赤ちゃん』が大ヒット。同年、女優シャロン・テートと結婚。映画監督としての成功と名声、そして幸福な私生活。その二つを手にしたポランスキーに再び血と悪魔が襲い掛かったのがその翌年、一九六九年である。

「俺は悪魔だ。悪魔の業をしに来たのだ」

マクダフの居城を襲う刺客にでも相応しいような芝居がかった台詞だが、実際にこの言葉を口走ったのは、シャロン惨殺に関与した狂人の一人だ。修辞も韻律もない現実の台詞は、その渇ききったリアリティによって聴く者の背筋を凍らせる。

当時妊娠八ヶ月であったシャロンは、目の前で三人の友人を殺された後、必死の嘆願も虚しくナイフで体中を刺し貫かれる。その数十六。全身に合計五十一の刺し傷を受けた被害者もいた。『マクベス』と血と悪魔とポランスキーについて考えている僕は、ここでも戯曲の一節を思い出す。「頭に二十も風穴を開けられて、どぶの中でのびております」。バンクォーの死に様を報告する暗殺者の台詞だが、芝居では五十とは言えない。言えば一度にリアリティが失せる。リアリティを失うほどに常識を凌駕した事実は、芝居の中でよりむしろ現実の中で語られる。

シャロンの命を奪ったのは、アメリカの有名なカルト集団であるマンソン・ファミリーの構成員ら四人。彼ら四人がポランスキー邸をその標的に選んだ経緯は純然たる偶然としか言いようがないが、ポランスキーの作品史を振り返ると、因縁とか宿命とかいった言葉を思わずにはいられない。イギリスで『反撥』『袋小路』『吸血鬼』といった血塗れの映画を撮ったポランスキーがアメリカで飛ばしたヒット作、『ローズマリーの赤ちゃん』は、悪魔の子供を妊娠する女の話だ。ポランスキーは撮影にあたって実在する悪魔崇拝の教団に協力を依頼しさえしている。

この惨事を経てなおポランスキーは『マクベス』を撮った。『マクベス』と言えば上演するたびに関係者の周りに事件や事故がつきまとい、本国イギリスでは未だにその名を口にすること自体が忌避される不吉な戯曲である。筋の運行は魔女の予言によって支配され、どのページを開いても血の匂いがする。そんな戯曲をこの段になって取り上げる。自己破壊的な欲望からか、それとも彼自身の運命の魔女への挑戦か。いずれにせよ理解しがたい。またしても戯曲の一節が頭をよぎる。晩餐会でバンクォーの亡霊を見た直後、マクベス自身が語った台詞だ。

「血の流れにここまで踏みこんでしまった以上、今さら引返せるものではない、思いきって渡ってしまうのだ」

ポランスキーの『マクベス』は、冷淡なリアリズムの目に貫かれた忠実だが凡庸な映画化であり、黒澤明による『マクベス』の翻案である『蜘蛛巣城』を知っている観客の目にはさしたる驚きを与えない。が、ラストの改変は秀逸と言う他ない。マクベスの首が飛びマルコムに王位が渡った後、魔女のほこらに足を踏み入れていくドヌルベインの姿が写される。流れてくるスタッフロールを見る観客の心に、さらなる王位簒奪の争いの予感をあざといほどくっきりと刻み込む大胆な改変だ。身近な人間の血を浴び続けたポランスキーの冷めた歴史観を感じさせる翻案である。

そう言えば、魔女の扱いも彼の思想を反映しているように見える。一幕三場、マクベスに予言を告げた後、原作では「大気の中に消えうせ」るはずの魔女は、ほこらの階段を降りていくだけで消滅も霧散もしない。四幕一場で今度はマクベスの方から魔女を訪れる場面でも、マクベスは実体のある階段を降り、ほこらの地下では実体のある魔女の集団を見る。数十人の裸形の醜女がマクベスを取り囲むシーンは視覚的な驚きも強いが、それ以上に重要なのは、マクベスを血の海へ誘い込み、ドヌルベインすらも争いの連鎖の中に引き込んで行く魔女たちを、運命の女神でも野心が見せた幻影でも超自然の力を操る魔女でもなく、黒魔術の儀式にふけっているとは言え同じ人間として設定したということだ。一度目は集団の狂気によって母を奪われ、二度目は個人の狂気によって妻を奪われたポランスキーは、この世に争いと流血をもたらす本当の悪魔が一体何物であるか、誰より深く理解していたに違いない。

この秋、明治大学では昨年の『ヴェニスの商人』に続く文化プロジェクト公演の第二段として『マクベス』を上演する。今年も俳優の原田大二郎氏に監修を依頼し、多彩な講師陣による講義と課外の稽古を平行して進めていく運びだ。今回自分が演出の話を頂き、演出案に思いを巡らせ評論や注釈を走り読みするうちにまず頭に浮かんだのが、「血と悪夢」、この二つの言葉だった。

シェイクスピアの悲劇全作品の中で最も短いこの戯曲は、ドラマの凝縮度と速度において他の追随を許さない、暴力的なまでの牽引力を持った作品だ。スコットランドの枯れた荒野から魔女に手を引かれて血の流れに足を踏み入れたマクベスは、やがて魔女の先導を追い抜いて地獄への道筋を坂道を転がるように駆け下りて行く。いや、「転がるように」は大きな誤読だ。マクベスはその両足をしっかと地に食い込ませるようにしてその坂道を下るのだ。魔女は運命の支配者ではあるかもしれないが、マクベスの精神と肉体の主人はあくまでも彼自身である。濃霧のように周囲を取り巻く悪夢の中、自ら破滅への加速度を上げて行くマクベス。その速度と彼が見た悪夢を見せることがまず要だ。

そしてこれは血の芝居であると言うことだ。奇しくもポランスキーと同じポーランド人である演劇批評家のヤン・コットもマクベスを語るにあたり血という語を叫ばずにはいられなかった一人だ。

「『マクベス』を実際に上演してみて、世界が血の海になっているという感じが出ないようであれば、その上演はまちがっているというほかない」

何故ならば、『マクベス』の中の血は単なる比喩ではなく、殺された人のからだから流れ出るほんものの血であるからだ、と言う。確かに、同じく権力をめぐる野心とメカニズムを描いた『リチャード三世』において主に舞台外で流される血とは異なり、『マクベス』における血は舞台を染める色を持った血だ。それは単なる殺人の記号的な表現ではなく、感覚を犯す温度と匂いを持った血であると観客に感得させることができなければ、ダンカン殺害直後のマクベスの放心も、マクベス夫人の夢遊病も、家族を皆殺しにされたマクダフの嘆きも、おとぎ話としてしか響かない。

近年の戦争映画を思う。画面はクリーンではなく、ぬるっとした流血でしっかりと着色されているのが常である。アウシュビッツやスターリンの粛清やポル・ポトの狂気を通り過ぎた我々の現実感は、どこかしら狂っているところがあるのかもしれない。あるいは単に飽食した時代が血を欲しているのかもしれない。いずれにせよ、血を綺麗に拭い取り死に化粧を施した画面ではなく、ずたずたに引き裂かれ踏みにじられた人間性とその肉体をまっすぐとらえた画面が支持を受けているのは確かだ。舞台上に血を写実的に再現することは必要ないが、血の匂いのしない悲劇は、史上最も多くの血が流された二十世紀という時代のリアリティの中で生きてきた我々にとって嘘めいて見える。血の匂いのしないアウシュビッツ。血の匂いのしないベトナム。それは嘘である。

「血と悪夢」、それにこだわるのは、観客にマクベスと同じ荒涼たる風景を見せ、古典の埃を払いたいがためだ。『マクベス』は極めて現代的な戯曲である。緻密に描き込まれたマクベスとマクベス夫人の心理的葛藤や二人の関係性は、心理劇としてハムレットに肉薄する興味を劇に添えているし、野心や権力欲、政権奪取と言った普遍的な問題を扱ったプロットは、史劇に見られるような歴史のメカニズムを語っている。だが、血の匂いのしない舞台からは、心理劇的なリアリティも史劇的な重みも立ち現れてこないと思うのだ。

さあ、ここまで書いて僕は自分の世代の血に懐疑の目線を向ける。古典の埃を払い、展開されるドラマに心理的・事件的リアリティを与えるために随分と「血と悪夢」という言葉を繰り返してきたが、それはこの体を流れる世代的な「血」のせいだろうか? エンターテイメントとして流血を求める浅俗な血が僕にも流れているのだろうか? あるいは、一九八二年生まれの僕には、同い年である酒鬼薔薇聖斗やコロンバイン高校の銃乱射犯と同じ色の血が流れているのだろうか? 露悪的なことをする気はないが、自分だけは正常だと思い込んではならない。三人の魔女に肩を叩かれたとき、僕は誘惑を振り切ることができるだろうか? はっきりノーと言える人間はいないだろう。循環する歴史の中で、三人の魔女はいつでも「この次会うのはいつにしよう?」と相談を続けているはずだ。

ポランスキーが叫び求めた「血」の意味が、彼の母と妻が流した固体的な意味での血か、歴史が描く弧の中でどくどくと連続的に流される、いや、人間同士が流させ続ける、人類史的な意味での血か、それはわからない。だが、戯曲『マクベス』の中で流される血は、そのどちらの意味をも含有した色を持つ「血」だと思うのである。

やや筆が走り過ぎた感があるが、『マクベス』は自分を熱くさせる戯曲だ。今年、明治大学が上演する『マクベス』は、アカデミーホールの大舞台に少なくとも三十名以上、多ければ五十名を超えるキャストを配しての大規模な舞台である。公演日程は九月の十六日から十八日までの三日間。是非会場へ足を運び、血と悪夢の中へ、マクベスと共に足を踏み入れて頂きたい。

(※この文章は、『劇・ドラマ』32号に収録されたものの再掲です。)