PLAYNOTE わからなさ

2005年03月28日

わからなさ

[演劇メモ] 2005/03/28 19:09

ハケン生活者さんでまた面白いエントリーが。「分からないと、だめですか?」

昨日観に行ったダンス公演でのこと。休憩時間に私の斜め後ろにすわっていた男性が、「これの言わんとしていることが分からない」「こんなだったらミュージカル観に行きたい」「テレビとかCMみたいに分かりやすくなきゃ意味ない」とさかんに連れの女性に愚痴っていた。

お連れさんは災難だが、俺はこういう素直な人、好き。以前確かfountainくんが「昨今の純文学はわけのわからないものをありがたがってるだけ」みたいな寸評をしていたことがあって心から頷いた覚えがある。カフカの小説とかダリの絵、ジョン・ケージの音楽は「わけがわからないだけ」ではないが、フォロワーにはそういうの、多い。わけのわからないものは切って捨ててしまえ。

イギリスの講義でよく "accessible" という単語が出てきた。文字通り「アクセスできる」という意味だが、翻って「理解しやすい、わかりやすい」という意味で用いる。ポストモダニズム以降、演劇も含めてパフォーマンス・アートはガンガン in-accessible になってる。ベケットやイヨネスコ、ジャリやアルトーの影響はでかいだろうし、近代における科学への三跪九叩頭に対する反動でもあるだろう。

ベケット以降、って文脈で考えると、日本の小劇場なんかその影響をモロに被っているわけだ。俺が初めて見た芝居は鴻上尚史の『ピルグリム』。高一のとき。放送禁止級の過激な世評や台詞、ジョークと、その「わけのわからなさ」に何か背筋が震えた。鴻上自身も「わけがわからなくても涙があふれて仕方がない、そんな作品が作りたい」みたいなことをどこかで語っていたし、自身でもベケットの影響は意識しているだろうけど、明らかにポストモダンの時代に属する劇作家。

そういえば「わかりやすさ、わからなさ」に関して野田秀樹がこないだ少し話していた。『走れメルス』のとき、「なぜ今メルスかって言うと、『世界の中心で愛を叫ぶ』みたいなわかりやすい話がウケてる時代に、あえてわけのわからないものを叩きつけてみたかった」みたいなことを(あいまい)。ググってみたら、パンフにこんなコメントを載せていたらしい。

世界の中心で、わかりきった愛なんか叫んでる場合じゃない。
「助けてくださあい」じゃない。
誰も助けねえよ。

ピンターが確か「あなたの芝居はわけがわからない、割り切れない、解決がもたらされない」みたいな評を受けたとき、「人生とは得てしてそういうもの」みたいなコメントを出してた(またあいまい)。野田や鴻上の芝居は、観ればわかるが決して「わけがわからない」だけではない。でも中には本当に作家の力量不足で「わけがわからなく」なってる芝居も多いし、そういうのを切って捨てる姿勢はあっていいんじゃないかしら。

素人劇団が煙幕として使う「わけのわからなさ」と、アートの領域に足を踏み込んだ作品の in-accessiblity はよく混同されてる気がする。観る側が思い切って「これはわけがわからないだけだ!」と指摘する勇気を持たなきゃいけないんだけど、「わけのわからなさ」を指摘する場合、当然「わかってないのは俺だけ?」「裏に何か意味があるんでは」的な恐怖感があるから、なかなかそうもいかないんだよね。

特に何が書きたかったというわけではないんだけれど。リハビリ代わりの随筆です。

コメント

投稿者:モトヤマ (2005年03月28日 17:36)

 確かに、今の世の中、「わけの分からなさ」が一人歩きをしているように感じる。俺としては、個人尊重主義が、凡人が「自分は天才なんじゃないか」と勘違いさせているからだと思ってる。
 凡人が天才のフリをすることにより、低俗な「わけの分からなさ」が現れているのが、現在、多くの小劇場でみられるんじゃないかな・・・。

投稿者:Kenichi Tani (2005年03月28日 18:05)

個人尊重主義との兼ね合いはわからないけど、現象としてはそーゆーのあるよね。単に作家の力量不足なんだけど、客の方は「あれどういう意味だったの??」って親切にインタビューしてくれちゃうっていうラッキー構造。