PLAYNOTE 独白についてちょっと考える

2005年01月21日

独白についてちょっと考える

[演劇メモ] 2005/01/21 17:25

シェイクスピアの独白の劇的効果についてセミナーで喋ったので、独白一般についてちょっと考えてメモ。

演劇において韻文が死んだのは自然主義旺盛の19世紀末だろうか。韻文の死、そして独白や傍白といった演劇独特の表現方法の死は、現代の観客が被った修復しようのない損害であるように思う。

小説なら地の文、漫画ならモノローグ、映画ならクローズアップで捕らえることのできる内面の思考の変化を、演劇はすべて外に出さなければならない。突然傍白や独白をはじめる、というスタイルは「一般的な」演劇ではもう使われていない*1から、畢竟それを会話や行動で見せなければならない。が、聞かれてもいないのに突然自分の気持ちを語り出したりするのは明らかに不自然*2で工夫が必要になるし、独白や傍白が描き得る思考や心情の底の底に届くような会話・行動はなかなか見つかるものではない。

シェイクスピアの独白はその文章の美しさだけでも特筆ものだが、それ以上にいかにシェイクスピアが人物に全霊で憑依して書いたかを伝えている。シェイクスピアは他人に、あるいは完全な架空の人物になりきる天才である。ほんの端役みたいな役でさえ個性を持っていたりするから恐ろしい。

誰だか知らんけど Franco Moretti という人の "The Great Eclipse" という論考を読んだ。いくつか示唆に富む箇所があったので引用しておく。コルネイユの書く独白が自分の動機を確認し行動を決意するためにあるのに対して、シェイクスピアのそれは全く違った働きを持っていると彼は断ずる。

With Shakespeare, the soliloquy fills a very different function - not of promoting the action or establishing its implications, but the site of doubt and irresolution: of 'the pale cast of thought' with which 'the native hue of resolution/is sicklied o'er' in Hamlet; of the 'words' that 'to the breath of deeds too cold breath gives' in Macbeth.

Instead of the lucid Cornelian continuity between word and action, a radical discrepancy, or category difference, makes words impotent and actions mute. This mistrust in the practical force of language - so different from what his culture envisioned - makes Shakespeare's soliloquies the first manifestations of 'poetry' in the modern sense of being emancipated from a rhetoric conceived as the art of convincing.

Whereas in the Cornelian soliloquy, the hero prescribed to himself the actions he would then perform, establishing in fact a complete rhetorical circuit, the Shakespearen hero by contrast addresses no one - neither a part of himself, nor another character, nor even audience. Having no addressee, his words do not even participate in the dramatic context.

ちょっと考えてもみなかった発想なので感動した。ハムレットにおいては行動そのものよりもむしろその逡巡の方に劇的な醍醐味があり、独白はその逡巡と苦悩を描くためのもので、ハムレットの行動を促すものではない*3。ハムレットとは比較にならないほど行動的なマクベスも、独白の中では真っ二つに裂けようとする己の心を見つめている。

同じ論文の中で紹介されているトルストイの言葉もある意味では真実をついているように思う。もっとも、シェイクスピアの創造した人物たちは舞台に乗せれはそれ自体が生命を持つから、全面的に賛成というわけではない。

... as Tolstoy once observed (in the only reasonable attitude for anybody seeking 'psychological realism' in Shakespeare), it is not Othello or Macbeth or Hamlet speaking in such passage, but 'all his characters speak, not their own, but always one and same Shakespearen, pretentious, and unnatural language, in which not only they could not speak, but in which no living man ever has spoken or does speak.'

pretentious とか unnatural とかはこの際どうでもいい。そこに劇的効果があるかどうか、そこだけが演劇学的な興味だ。そして劇的効果は間違いなくある。ただ、独白というツールがシェイクスピアにとって筋や心情を表現するのみならず、彼の世界観や哲学を舞台化するのに絶好の手段であったということは頭においておきたい。

独白や傍白を「不自然」「あり得なーい」と言って切って捨てるのは簡単だけど、それらを「不自然」「あり得なーい」にしているのは自然主義に慣れ親しみ過ぎた現代の精神であって、それらが往時持っていた劇的効果をまで唾棄するのは大変もったいないと思う。

この貧困は演出家ではなく脚本家に課せられた課題だ。演出が20~21世紀にさまざまな方法論を獲得したのに対して、戯曲の発達はどこにあったか? 不条理演劇の発明以外に俺は思いつかないんだが、その火も消えかけた今、いやマジで、何か面白い脚本ってないかなーと思う。

*1 野田秀樹は今でもやってるし80年代は珍しくなかったように思うけど最近はとんと見ない。bird's-eye view なんかは独白とも語りかけともとれないような独自の文体を持ってるけど、少数派であることは間違いないし他の例もすぐには思いつかない。

*2 これは以前井上ひさしが言っていたことだけど、その場にいる人物皆が知っている情報は会話の題材になり得ない。少なくとも誰か一人その事実を知らない人がいないと、「そうだったわね、それでお父さんは家を出たんだわ」みたいな奇妙な文体になる。…井上ひさしは割とそういう説明的な台詞使ってると思うけど。

*3 「そうだ、役者たちに王殺害のシーンを演らせて叔父の反応を見てやろう」のとこは例外的に最後に行動に結びついているし、他にも動機を準備する役割のあるところはあるが、いずれにせよ独白の主な役割はハムレットが逡巡を断ち切り行動を決意するコルネイユ的なものではないことは明らかだろう。

コメント

投稿者:しのぶ (2005年01月22日 02:27)

「突然傍白や独白をはじめる、というスタイルは「一般的な」演劇ではもう使われていない」ってういのは勇気を出し過ぎかもね。燐光群は独白が中心だし、チェルフィッチュも独白しまくりです。「オケピ!」は独白で構成されていたと思います。「独白や傍白を「不自然」「あり得なーい」と言って切って捨てる」友達が多いの?
脚本家に頑張って欲しいと思うのは同感。

投稿者:Kenichi Tani (2005年01月22日 13:37)

燐光群は見落としてたな。でもここ数年で進出してきたチェルフィッチュを一般的と呼ぶのはためらわれます。少なくともそういうスタイルがメインストリームではないってことで、新しい試みをしている小劇場に独白等の例があるのは認識してるつもりです。あとオケピはストレートプレイではない気が。

投稿者:とおる (2010年03月13日 09:00)

傍白、独白というものを舞台からではなく、シェイクスピアを翻訳した本から知りました。
例えばハムレットなどセリフの途中で感情が剥き出しになり内容とは一線を置いたものが入りますが、そういうのも傍白、独白に繋がるもので、個人的な意見ですが『人物表現』でこれらは自然に感じます。
コメントさせて頂いたのはこのような個人的な意見を言うためではありません……笑
このようなウェブサイトを作ることの意義が素晴らしく感じたからです。
勉強になりました。
ありがとうございました。