PLAYNOTE 黒澤明『乱』

2004年12月01日

黒澤明『乱』

[映画・美術など] 2004/12/01 15:34

100点。

(減点すべき点がないわけではないが、芸術評は減点法でするもんじゃない。ミケランジェロやピカソのマスターピースを前にデッサンの崩れや構図上の問題点を指摘しても意味がないのと同じで、あるラインを超えた作品に対する減点法は粗探しか個々人の好みの表明にしか行き着かない。散見するアラを鑑みても、この巨大な表現を前に俺は100点以外与えられない気がする。)

巨匠クロサワによる『リア王』の翻案。「シェイクスピアの映画化」という文脈では、洋の東西を問わずオリヴィエやウェルズと並んでまず第一に挙げられるレベルの完成度と影響力を誇る作品。

ケレン味に満ちた画と大胆な脚色。だがこれだけ大胆なアレンジにも関わらず、これ以上にリア王という戯曲の底、すなわちとりもなおさず悲劇というものの本質に近づいた作品(悲劇とは悲しい劇のことではない)は、映画・演劇問わずないだろう。原作の『リア王』に思い入れがあればあるほど魅力を増す映画と思う。

半年以上振りに日本語のドラマを見て、まず日本語の響きに酔いしれた。超カッコいいな、日本語。貧弱に翻訳された英語字幕を見て、この日本語の愉悦を味わえない欧米人を哀れんだ。

字幕の例。

「…我が身一つ。」 → "I'm alone." (違うだろ?)
「哀れ、老いたり。」 → "Old age is difficult." (風格ある台詞がすっかり間抜けに)
「そなたもあっぱれ、骨が太い!」 → "You are honest and loyal." (まぁ確かにそういうことが言いたいんだけど…)

中でも、原作のコーディリアにあたる三郎が死ぬ時の「これでいいのか?」というリアの台詞を "Is this justice?" としたのは酷いお節介だと思う。justiceっていう多かれ少なかれ一神教的な価値観から反問したわけじゃないでしょう、あそこは。仮にあの場面で日本語で「これが正義か?」と言ってごらんなさい。ぶち壊しですよ。

仲代達也

仲代達也の映画のフレームワークに収めるには強烈過ぎる眼力と存在感に圧倒的な映像美が加わって、普通映画が当然のように中に納まってしまうリアリズムの粋をあっさり超越した次元で画面が展開して行く。ギリシャ悲劇にも通ずる『リア王』という戯曲の巨大さ、観る者の存在を揺るがし脅かし、一気にカタルシスへ向けて興奮を飽和させる強烈な "G" も相俟って、映画ファンより演劇ファン、しかも歌舞伎とかバレエとか好きな人に好まれる映画だろう。

荒漠たる自然の中で泣き喚き人間の脆さを露呈するリア、という構図は同じだが、仲代の鬼気迫る演技が(ピーターがちょくちょく水を差してはいるが)来年で441歳になるシェイクスピアと現代人との間に強固な橋をかけてくれている。

最も特筆すべき点は、そのラストシーンのアレンジにある。原作では荒野を彷徨うリアの口から出た台詞をぐっと後に持ってきて、リアの死の直後に道化に語らせている。

「神や仏はいないのか、畜生! いるなら聞け! お前らは気まぐれないたずら小僧だ! 天上の退屈しのぎに人を殺して喜んでやがる。やい! 人間が泣き叫ぶのがそんなに面白いか!」

これをここに持ってきたのは、うまい。荒野で雨に打たれながらぺらぺら喋るリアは、仲代演ずる武士道精神の体現のような戦国の覇者のイメージにはそぐわない。この辺が東西のメンタリティの差。そこをうまく埋め、かつリアの死に符合させてるわけだからより言及がダイレクトに。

問題はここから。この台詞への応答として、物語の重要人物である忠臣にこのような台詞を吐かせている。

「言うな! 神や仏を罵るな! 神や仏は泣いているのだ。いつの世にも繰り返すこの人間の悪行、殺しあわねば生きていけぬ人間の愚かさは、神や仏も救う術はないのだ。泣くな! これが人の世だ。人間は幸せよりも悲しみを、安らぎよりも苦しみを追い求めているのだ。見ろ! 今あの一の城では、人間どもがその悲しみと苦しみを奪い合い、殺しあって喜んでおるわ!」

シェイクスピアの『リア王』の力強さの原因が、混沌荒漠たるこの世の中を一切の偽善やモラルを抜きにしてそのままに提示した点にあるとすれば、『乱』はその混沌に対して一つの哲学を与えている。この世界の chaos と bleakness を、「これが人の世だ」と達観しつつも人間の業に収斂させ、世界全体をモラルの破滅から救うことに成功しているのだ。

人間の生を「浮世」と呼びうまく付き合ってきた日本人のメンタリティと、最後の審判への道すがらとして必然的にモラルとの対決を余儀なくされて生きる西洋人のメンタリティの違いがこの帰結の違いではないだろうか。俺はこの作品のあちこちに、小道具や衣装としてではなく、否定できない文化的・社会的背景としての仏教の臭いを嗅いだ。

あえて欠点を挙げるとすれば、やや時代考証を欠いた脚本と二時間四十分という長大さがまず筆頭に上げられると思う。あまりにも現代口語過ぎる表現の数々もやや興醒め(とりわけ上に引用した「いたずら小僧」にはげんなりした)だが、興行的な成功を考えるとあまり難解な古語は使えなかったのだろう。また、原作にもある「天上の神々に翻弄される脆き人間たち」というコンセプトも、神道があるとは言え仏教的世界観に基づいた文化・社会の上に立つ戦国時代の人間が天上の神々を想定することに違和感を覚えたこともまた事実。この辺は翻案として甘かった気がするけど、最初に書いた通りこれは粗探し or ケチつけでしかないので俺は気にしない。

一応ネット上のレビューへのリンクを。これに限らず映画評って何か表面的な評が多い気がする。逆に演劇評は論理武装と拡大解釈にまみれていて辟易することがあるけど。

コメント

投稿者:京子 (2004年12月02日 02:46)

おひさしぶりです。この文章は読んでませんがコメントします。なぜ読まないかというと活字が多いからです。ゆるしてね。でも、すげえ・・・という感想はもちました。ひさびさに授業にでてパソコンに向かったので興奮しつつネットという現代っこぽいことをしています。谷さんのやつ読まなきゃと思いました。きっとこのコメントは、そんな長い手紙みたいのに使うものではないのだとネットにうというちでも予感しましたが、他につてがないので、まあいいや☆もうちょっとで冬公演です。なつかしいね、一年はやいね。見に帰って来ないの?ぱぱーっと帰ってきて見れたらいいのにね。やっぱりはずかしくなってきた。京子は、無職でしたがぜんぜん存在してます。いや、ハッピーをもらいました。ほぼ無職みたいなかんじだけど。冬公演見にかえってきて、みんなで鍋をしよう!!では、さよならぱいぱい☆☆☆

投稿者:Kenichi Tani (2004年12月02日 14:03)

「読んでませんが」の潔さに笑ったよ。京子、爆笑をありがとう。ハッピーなんて超重要な職じゃんか!俺もちょっと欲しかったくらいだ。頑張れ!!

冬公演観たいなー。雅弥が作演ってのが無茶苦茶面白い。あれから一年か、超早いな。感謝祭も行けなくて残念だよ。こないだ日本が恋しくてマジで日本行きの航空券探しちゃったんだけど、往復で十三万!こっち学ロンねーから無理だわ。

三月末に帰るから、そしたらがぶがぶビール飲もうぜ。鍋はもう終わってるなー。バイバイ!

投稿者:丑四五郎 (2007年06月21日 21:40)

初めまして。『乱』のラストシーンを心情的に的確に分析・解説されている事に感激いたしました。セットや衣装ばかりほめる人ほど、作品の真意を理解せず、ラストの台詞をシラケルとかケチをつける傾向にありましたから「その通り!」と涙が出る思いです。
黒澤明の遺言。誰も知らない『まあだだよ』と『影武者』オーディション合格者“三十騎の会”
1980年『影武者』のオーディション合格者たちは、その後も『乱』『夢』『まあだだよ』の製作に深く関わった。黒澤監督が"三十騎の会"と名付けた彼らの苦労と幸福を映像化し動画配信しています。
http://tokyowebtv.at.webry.info/200703/article_2.html
『乱』姫路城初日の秘蔵ビデオも公開中。詳しい事情はビデオブログ『黒澤映画ゼミナール』をご参照下さい。


投稿者:search engine optimization vancouver (2012年01月13日 05:48)

今日、私は私の子供たちとビーチに行きました。私は海の殻を発見し、私の4歳の娘にそれを与えたと述べ、"あなたの耳にこれを置けばあなたが海を聞くことができます。 "彼女は彼女の耳にシェルを配置し、叫んだ。そこにヤドカリは内部であり、それに挟ま彼女の耳。彼女が戻ってしたいことはありません! LOL私はこれが完全にオフトピック知っているが、私は誰かに指示していた!