PLAYNOTE 試論

2004年11月24日

試論

[雑記・メモ] 2004/11/24 16:08

どうもちゃんとしたエントリーを書くだけの気力がないので、最近考えてることをメモ書きしてみる。

ごめんなさい、資料も見ずにほいほい書いてるのであちこちに不適切orいい加減な表現があります。この文章に対して本気で怒ったり引用して正当性を検証したりはしないで下さい。

今受講している Modern Theatre の講義は「じゃあ現代、演劇は一体何ができるのか?」という至極ありがちな、それでいて誰も説得力のある回答を提出し得ていない問いから始まった。印象的だったのが、イギリスの何とかいう若手作家が、

「劇場から帰ってテレビをつけたら、今さっき劇場で観たのと同じようなドラマがやっていた。私はそんなもののために劇場へ足を運ぶのではない。…自然主義的なルールに固執する限り、イギリスの演劇状況は貧しいままである(記憶あいまいな引用、たしかガーディアン紙より)」

と述べていたこと。へー、どこの国も自分の演劇状況を貧しいと思ってんだ、演劇大国イギリスでさえ。と驚く。

ちょっと客観的に振り返ってみると、日本ほど豊かな演劇業界ってのもそうそうない(ごめん、東京を念頭に書いてる)。歌舞伎・能なんていうとんでもなく希少で深い伝統芸能を擁しつつ、小劇場・中規模以上の劇場では玉石混交の現代劇が観られる上、数は少ないがまぁミュージカルも観れるし宝塚みたいな飛び道具まである(ネガな意味じゃないです、宝塚はホントすごいと思う)。イギリス演劇の底まで見た、というわけじゃないけれど、半年居た感じ、質の問題はさておきバラエティに関しては日本は飛び抜けて恵まれていると思う。

「じゃあ演劇に一体何ができるのか?」に話を戻すけど、何もねーなと思うわけだ。現状。以前確かユリイカで、野田秀樹が「結局最後は、ライブであること、それが演劇の強み」みたいなことを言ってて、その時は野田秀樹ほどの人がありきたりなことを言うなぁ、と思ったもんだったけど、最近になってそこんとこに思考が回帰している。

最近シベ少がすげぇすげぇ、確かにすげぇ、俺も観たけどすごかった、けど、高野しのぶさんが指摘しているように、シベ少の方法論は突き詰めればテレビでも出来るし、むしろ土屋亮一という才能のとんでもなく広角な振れ幅は、演劇というメディアに限定せずあっちこっち広がった方がいいとも思う。テレビでシベ少が観れるよ、という状況下で、シアタートップス行くか?というと普通の人は行かない。俺は多分行かない。お金ないし。

「劇場に行く」という絶望的に高いハードルをクリアするには、驚いたことに、300円でレンタルできる大作映画やタダで観れてしかも超美形や個性派の役者が出てるテレビドラマに勝るものを作らなくちゃいけない。演劇を、演劇ファンじゃない普通のお客さんにも観てもらいたい、と思ったら、テレビや映画と対等のクオリティじゃまだ駄目、明らかに上回る価値がないと実現できないわけだ。

じゃあ何をしようか。何をすればいいんだろう。

1.演劇にしかできない表現・面白さを追及

野田秀樹や歌舞伎やグローブ座の興奮・感動はテレビ収録には代え難いものがある。が、暴論だが、大好きだけど長塚圭史やケラの演劇は、テレビで見ても別にいいし、家で見れたらいいだろなぁと思う。後者のグループの面白さは、クドカンが映画だテレビだと「出世」したのと同じようにある程度成熟したら他のメディアに吸収されちゃうわけで、演劇固有の面白さではなくて、むしろ作家固有の才能・面白さ。

「じゃあ具体的にはどんな?」となると、それこそ日本中の演劇人がうーんうーんと考えてることなんだから、こんなところで読めると思ってはいけない。俺も考えるところはあるけどとても書けない。

2.「劇場へ行く」という行為が何らかの付加価値を持ち得る

劇場が芝居を観るための場所、に留まらず、イギリスや(たぶん)ヨーロッパでそうであるように、社交あるいは娯楽の場として機能すること。

ちょっとデータの出所は忘れた(冬休みにちゃんと調べるつもり)けど、「観劇が趣味」と答えたイギリス人は全体の24%であったそうだ。24%!あり得ない。その背景には、こっちの劇場は行くと楽しい、楽しめる、というのが間違いなくある。申し訳ないが、日本の小劇場は尻は痛いし窮屈だし暗いし、「わー防空壕みたい」的なわくわくは別とすれば決していて楽しい場所ではない。以前うちの教授が「劇場が大人の娯楽たるに足るもの」にならなきゃならん、日本の劇場は椅子は狭いし立地は不便だし、終演後軽く一杯飲みながら芝居の感想でも喋るようなカフェもバーもない、とこぼしていた。劇場内にカフェやバーあるとこもあるけど、大抵は終演と同時に閉まる(笑)し、そもそも10:30終演で渋谷にいて、そのあとゆっくりできるかというとそうはいかない。終電を気にして慌てて帰る、とか、あるいは明日仕事があるから家に直帰、みたいなのがほとんどだろう。

つまり、日本の劇場から「観劇」という本質的な目的をマイナスすると、何も残らない。残るのは窮屈な椅子だけ。こっちの劇場は見た感じ休憩時間のおしゃべりや劇場へ行くためのおめかし、終演後の一杯も含めて娯楽として機能してる感がある。ちょっと贅沢な夜の過ごし方、という選択肢に入るわけだ。俺の私見だけど。

芝居そのものが面白ければそんなのなくても!というのはちょっと無神経。同じ映画でも、観るなら何たらサラウンド搭載のシネコンでショッピングやディナーつきの方が町のぼろい映画館より集客が見込めるのは明らか。そういう意味で、映画館がはじめた戦略に学ぶところは多いかもしれない。

また、劇場へ行く、という行為の社会的なステータスがもうちょっと上がらないと、いわゆる文化人のセレブリティな人たちは絶対劇場に来ない。「そんなん来なくていーよ」と門戸を閉ざすところがまた演劇界のハマグリなところ。多くの人に見てもらった方がいいのは当然のことだし、ちょっと下衆な発想だけど、そういう人が来ないということは公的支援・芸術振興とかでもやっぱオペラやバレエが第一、演劇は残った金を回しとけ、みたいな形になりかねない。今の芸術保護がそういう状況ではないと思う(あいまい)けど、そうなっちゃう。

* * *

まとめると、キング・アーサーとか何とかの動く城とか冬ソナとか以上に面白くてかつ演劇固有の表現を会得して、かつvenueとしての劇場が足を引っ張らないのはもちろん足を向けたくなるような場所、日常では味わえない興奮でもリッチ感でも高揚感でも何でも、を与えてくれる場所になったらいい、と思うよ。すごい神業。

* * *

演劇にしかできない固有の表現。他のメディアがなくてみんな文盲だった中世イギリスとかではあり得ない問題なわけだけど、むしろそんな中世イギリスの方が演劇にしかできない固有の表現をしているような気さえ。その後の演劇史を見ると、むしろ演劇の方からすりよるように後進の小説や映画の表現の方に近づいていっている。わざわざそちらの土俵へ乗り込んで行って苦戦しているような感がある。

ギリシアでは演劇観るのは半強制、とまでは行かないにせよ、チケ代は国家から支給されるし、ぽかぽか暖かい春の陽気にあたりながらお弁当持ってピクニック気分で劇場行ってたみたいだから、これもいい時代だったよなぁ。

歌舞伎だって、まぁ風俗あっ旋みたいな機能は追いとくにしても当時にしては相当粋で豪華な遊びで、茶屋はもちろん出店みたいなのも出てたそうだからお祭り気分だったんだろう。

この辺が演劇黄金期の代表的なものだと思うけど、いずれもすっげー力強い脚本、セックス&バイオレンスへの言及および表現を含むステージ、劇場の娯楽性と共通している。

まとまらないのでおしまい。いずれちゃんと(確信を込めた形で)書きたい。

コメント

投稿者:**** (2004年11月26日 16:12)

社会における存在意義というか
unique selling propositionは
まじめになにかをやるには避けては通れないものだろうよ。

帰国後はなんらかの確信(保留込みでいいから)をもった
演劇を見せてくれ。実は楽しみにしている。

投稿者:Kenichi Tani (2004年11月26日 17:09)

えへへ、頑張ります。勝負の年なんで、頑張りますです。ちゃらちゃらしたこと書いてるようで、芯まで出来上がってるつもりです。