PLAYNOTE 日本における劇評の位置

2004年11月19日

日本における劇評の位置

[演劇メモ] 2004/11/19 19:40

劇評。イギリスと日本の大きな違いの一つ。劇評の占める位置の違いが、日本とイギリスの演劇の違い、社会における演劇の位置の違いを少なからず反映してると思う。ちょっと書く。

イギリスではウェスト・エンドの主要な劇場で初日の幕が上がれば、ふつうニ三日、遅くても一週間で新聞各紙の劇評が出揃う。劇評は読者にとって劇場へ足を運ぶキッカケになるだけでなく、保存されて後の研究・批評の糧になったりする。新聞の劇評だけを集めた『Theatre Record』という雑誌があるくらい。

日本の劇評は、全く存在感がない。割と芝居に関心のある俺でも、新聞紙上の劇評を切り抜いたり、触発されて劇場に行ったり、という覚えがない。当然『Theatre Record』みたいな雑誌はないし、そもそも俺は日本の図書館にある演劇書で劇評の引用を見た覚えがない。

何が違うのか。完全な俺の類推だけど感じたこと。

1. 批評の役割の違い

日本で紙上の劇評をまじまじと読んだ数少ない経験を元に思い起こして、日本の劇評が何かしら批判しているのを見たことがない。こないだ毎日新聞がとある映画をこっぴどく批判してた例を見たから、もしかしたらどこかであるのかも知れないが、俺の記憶にはない。

こっちの新聞は「評価」をする。Guardian紙の劇評ページを見ると一目瞭然だが、星つけて五点満点で採点しているほど。各紙で評価が割れることなんかざらだし、星一つも割とよく見かける。日本の新聞は「評判」を呼び込むだけ、という気がする。

採点制度も良し悪しだが、日本ではそれ以前にうまく機能しない気がする。朝日や読売が星制度を導入しても、星一つをつけることはないんじゃないかしら。

2. 社会における演劇の位置の違い

これは完全に俺の視点から感じた主観的な感想なんだけど、イギリスで劇場行くっていうとハイソな感じがする。オシャレ、とまではいかないけど、割とスノッブなレジャーという感じ。「芝居に行く」が「美術館に行く」「食事に行く」みたいなハイソ感、よそ行き感、ワクワク感を伴う。劇場で初老の夫婦やドレス着てきちゃった中年女性とか見ると、ああ、違うなぁとひしひし感じる。

また、扶助の感じが違う。日本の演劇界における公的扶助の問題は、俺の中では随分前に読んだ『現代演劇のフィールドワーク』(マジ良書、超おすすめ)で情報が止まってるんだけど、サポートする側にもされる側にもぎこちなさがあってうまくいってないことは大体わかる。うちの教授はレクチャーの脇話で、「芸術に公的扶助がなければどうなるか。資本主義の需要に追従するだけだ」と断言していたが、芸術振興に関する感覚が日本とはちょっと違うみたい。これは帰国する前に絶対ちゃんと調べて帰ろうと思う。

「ハイソ」「扶助」だから何だって? 社会における演劇の位置・役割が公に認められているってこと。日本社会における演劇の位置? 「あってもいいしなくてもいい」が、悲しいながらも現状では正解に近いんじゃないだろうか。

「位置・役割が公に認められているもの」と「あってもなくてもいいもの」、二つを対象に評論した場合、どういう違いが出るか。需要も役割もないものに、宣伝文じゃなくて真剣に評論を書く新聞社があるだろうか。少なからずこの点が、日本とイギリスの劇評の違いに影響してると思う。

まとめ

イギリスの劇評の即時性にはちょっと驚く。日本でこれを…というのは遠すぎる夢(少なくとも、まず社会における演劇の意味が広く認められないことには)

その代わりに機能するもの…となると、ネット上の劇評があると思う。無名の劇団であっても面白いものは面白いとして喝采し、人気劇団でもつまんなければ★一つ。アカデミックな用途には向かないかもだけど、すでにえんぺや定点カメラ等の長老さまたちは半端ない資料的価値があると思う。

さらに一歩踏み込んで、面白いか面白くないかだけじゃなくて、客観的でアカデミックな立場からなされた「劇評」も豊富にアクセスできる環境になれば言うことなしなんだけど。観客の感想と評論家の評価、どちらも違った価値があるわけだから。