PLAYNOTE "Shakespeare on Stage"より

2004年07月24日

"Shakespeare on Stage"より

[読書] 2004/07/24 23:42
Shakespeare on Stage
表紙

今、20世紀イギリスにおけるマクベスの上演史についてのレポートを準備している。その参考文献として借りてきた"The Cambridge Companion to Shakespeare on Stage"という本に、日本におけるシェイクスピア上演の歴史がちらっと乗っていたので紹介する。

「古来ハラキリを見世物としていたカブキアクターはシェイクスピアを七五調で演じた」とか、そんなとんでもない誤解・誤謬を期待していたが、2002年出版と新しい本だったせいもあってか、随分まともだった。

(ちなみに上述のかぎかっこの一文もまんざら嘘ではない。明治時代に海外巡業していた川上音二郎一座はハラキリ芸で売ってたし、坪内シェイクスピアは七五調だ)

日本でのシェイクスピア上演は翻案から始まった。最初期の例として、1885年に上演された "Sakuradoki Zeni no yononoka" が紹介されている。これは『ヴェニスの商人』の翻案で、『何桜彼桜銭世中』というもの(太字で示した 'o' は 'a' の間違いだろう)

参考: Google 検索: 何桜彼桜銭世中

その後、素人役者による新派の翻案シェイクスピア、坪内逍遥訳の新劇シェイクスピアが現れるが、1930年代には上演数は減り、むしろ戯曲として読まれるようになる。そのまま太平洋戦争に突入。

戦後の新劇運動としては福田恒在と小田島雄志を紹介(小田島訳の登場までは上演テキストは坪内訳が一般的だった、とあるけど本当だろうか?)。小田島訳は「坪内訳より原典に忠実であると同時に、原典に対し非・忠実」であり、口語的かつ若者的な訳であったため、役者の理解を助け、現代的な台詞と人物の造型に寄与した、みたいなことが書いてある。なかなか鋭い指摘。出口典雄と渋谷ジァンジァンのことも書いてあって、ちょっと感動。

1970年以降、殊に1988年の東京グローブ座のオープン以来、海外の先進的なカンパニーが次々来日。また、蜷川幸雄・鈴木忠志に代表される小劇場によるシェイクスピア熱も高まる。蜷川マクベスは日本の伝統的な衣装・装置に加え、歌舞伎的な所作で演じられたのに対し、鈴木忠志は能を基にした彼特有の俳優訓練メソッド(鈴木メソッドのこと)を用いた、と、西洋人お得意の二元論的発想ではあるものの、非常にわかりやすい分類。

そして野田秀樹。「三代目リチャード」と「夏の夜の夢」を紹介。野田の独創的な翻案・意匠を高く評価した上で、「物々しいジャパネスク趣向」ではなく「素晴らしく生き生きとしたパフォーマンスのための言語」を導入したと叙述。…掲載されてた写真の間抜けさもさることながら、引用されていた

"Beautiful Soboro, you're as beautiful and transparent as shirataki. My bosom is pierced through like yakitori."
「美しいそぼろよ、あなたは白滝のように美しく透き通っている。僕の胸はヤキトリのように貫かれてしまった!」

という台詞のわけのわからなさ加減が絶品。

結びには、明治時代の翻案に「無意識的なローカリズム」、新劇に「浅はかな(西洋の)模倣」と手厳しい形容を与えた上で、現代の作品を否定的な意味合いで多様、と表現。また、シェイクスピアが新劇のみならずアヴァンギャルド演劇(小劇場のこと)の糧ともなってきたとも指摘。

確かに海外の学者サンから観たら日本のシェイクスピア上演の多様さは混沌に見えても仕方がないと思う。だが、翻案や演出によってシェイクスピアの異国性を消し、日本人の肉体と言語に親和した舞台を創造した…という点にこそ、文中に列挙された日本の演劇人の功績がある。

あるいは過剰にジャパナイズすることによって逆に舞台を異国化し、オリエンタリズムを煽った演出もあったろうが、それとて「浅はかな模倣」に比べれば目覚しい躍進ではないか。そういった演出は演劇の虚構性を支える。イギリスみたく現代に置き換えたりストレートに演じたりすれば目の当てられないような差異が浮き立ってくる以上、虚構性を意識させることは効果的な手法だろう。加えて歌舞伎のような大時代的な所作に、やっぱり日本人ってロマンや美を感じるものなんだよね。そういう意味で、「物々しいジャパネスク」も、俺は大いにアリだと思う。

割と委細紹介されていたので別に文句はない。ちょっと感想を書いてみた。