PLAYNOTE サイモン・マクバーニー演出『Measure for Measure』

2004年07月17日

サイモン・マクバーニー演出『Measure for Measure』

[演劇レビュー] 2004/07/17 19:30
舞台写真
Paul Rhys as Angelo

昨年『エレファント・バニッシュ』を観たときには(自分の春樹嫌いも手伝ってか)さして感動もしなかったが、今回は脱帽した。大袈裟に言えば、21世紀の演劇の方向性を予兆する一つの記念碑的作品。

グローブ座でオールドファッションな『尺には尺を』を観終えた二時間後、完全に新しく、毒々しく、身を切るような冴えた演出でもう一度観た『尺には尺を』。演出はサイモン・マクバーニー。オリヴィエ劇場 in ナショナルシアター。今年一番の収穫だったかもしれない。

開演前の舞台。上手奥に薄汚いバケツが一つ置いてあり、背面に数個のモニターが設置されている。この時点でピンと何かを予感した。

まず切り口の鋭さが凄まじい。「赦しの劇」なんて呼ばれるこの作品を、完全に裏返して演出しやがった。公爵を単なる快刀乱麻のヒーローとして描かず、影で暗躍し最終的にすべてを手にする独善的な独裁者として描いたアイディアには言葉を失う。そもそも赦しという言葉自体が傲慢なのだが、そんな次元を超えて、新たな公爵像を打ち立てた。

最後、イザベラに求婚する公爵の姿は、もはや喜劇の登場人物ではない。どす黒い私欲に満ちた偽善の塊である。舞台奥で右手を差し出す公爵、さらにその奥、暗闇の中に浮かぶダブルベッド、舞台前で逃げられぬ運命に絶望するイザベラ。公爵が最後、アンジェロやルーシオ、バーナーダインに与えたのは許しではなく贖罪だった。権力と銃を振りかざし、思いのままに人間の運命を分配する公爵。恐ろしいラストだった。

『エレファント・バニッシュ』でマクバーニーは東京のスカスカな空気感を舞台上に再現して見せたが、今回の演出では現代の道徳の崩壊、性の濫費、独善的な覇権の在り方、様々な「現代」を描いていた。戯曲から離れれば離れるほど戯曲に近づく演出とでも言おうか。シェイクスピアの胸を借りての演出ではなく、シェイクスピアをダシにしてマクバーニー独自の世界観を提示していた。素晴らしい。

照明が従来の照明の範疇を超えて、積極的に舞台を形成する役者の一人になっている。舞台いっぱいに映像を投射したり、シルエットを大写しにしたり、モニターも活用し舞台表現をかつてないほど深化させていた。

イザベラへの劣情に戸惑うアンジェロ、彼がたたずむ舞台には一面にイザベラのポートレートが映し出され、海難事故を語る公爵の背後にはたゆたう海と溺れる人影のイメージ。けがらわしい取引を説明するイザベラの背後には、ゆっくりとシャツを脱ぐアンジェロの影が、はじめ小さく、やがて段々と大きくなって映し出され、やがてイザベラを飲み込んでしまう。芸術だ。

だが闇雲にハイテクな舞台ではない。むしろ身体表現の可能性を汲み尽くした舞台である。場転が見事。時空の断絶を表す効果音と共に照明が切り替わり、前場の人物はスローモーションで退場し、次の人物たちが会話をはじめる。つまり、現在の場面が終わる前に次場の人物たちが舞台にいる。これは一見奇妙に思えるが、むしろイメージを膨らませる効果を担っている。イザベラとルーシオが会話を交わす間にゆっくりとアンジェロが歩を進める。単なる場転の都合でなく、アンジェロの不気味な影が会話に侵食してきて何とも不安なイメージを形作る。計算されつくしている。素晴らしい。

俺は普段演劇を芸術と呼ぶことにためらいを感じる。が、今回のマクバーニーの舞台は掛け値なしに芸術だった。一生記憶に残る舞台だろう。