PLAYNOTE シェイクスピア 『Romeo and Juliet』

2004年06月04日

シェイクスピア 『Romeo and Juliet』

[読書] 2004/06/04 19:46
映画『ロミオとジュリエット』(1968)
ジュリエット

原書で読んだ。一番安かったワーズワース・セレクションという版。£1.5。俺の大学の洗濯機は一度回すのに£1.6も取りやがるから、この閉鎖社会の中では一度の洗濯がシェイクスピアの悲劇以上の価値を有していると言えるわけだ。糞ったれが(行き場のない怒り)

以下、読書の雑感をとりとめもない感じで記す。

英語の本を読むのにも慣れてはきたが、正直今回はきつかった。松岡和子の邦訳が本当に助けになったが、それでも多分軽く10時間はかかったと思う。ThouだのThyだのDidstだのや倒置法にはずいぶん慣れたが、それにしても難しい。どちらかというと喜劇的な場面がしんどい。マキューシオが相当うざかった。すまない、マキューシオ、お前の台詞はちょくちょく飛ばした。

が、読後、ちょっと筆舌し難い感動。読んでいる最中も目からうろこが落ち続けだった。今まで日本語訳で読んでそれなりにじーんとしていた自分が途方もなく無知に思える。福田恒在と松岡和子は素晴らしい翻訳者にして文学者だと思うが、シェイクスピアの魂の1/10も日本語版には宿っていない。…こういうこと書くのは英語かぶれの馬鹿みたいで嫌なのだが、本当にすごかった。

例1。冒頭の雑魚どもの会話。日英差が半端ない。キャピュレット家のちんぴら二人が「モンタギューの連中をひどい目にあわせてやるぞ」と息巻くシーン。

サムソン「急所を狙って男なら痛い目、女ならいい目に合わせてやる」

グレゴリー「女の急所だと?」

サムソン「そうとも、女の急所、例の膜だよ。どういう意味に取ろうが先さまの勝手だがな。」

これだとサムソンは下品な親父でしかない。グレゴリーも突然「急所だと?」と、とんちんかんな聞き返し方をしている。これが原典だとスッといく。

SAMPSON 「When I have fought with the men, I will be cruel with the maids: I will cut of their heads.」

GREGORY「The heads of the maids?」

SAMPSON「Ay, the heads of the maids, or their maidenheads;」

サムソンが「I will cut of their heads.」と言ったのに対し、グレゴリーが「女の首を、か?」と聞き返す。だが、サムソンの言う"head"とは、"maidenhead"、つまり処女膜のことだった、という落ち。原典ではサムソンのこの台詞でピタリと符号があい、落ちがつく。こんなの訳せねぇよ。

小田島訳とか読んでるとたまに本当にしょーもない駄洒落が出てきて暗澹とした気分になることがあるが(小田島訳は嫌いだ)、確かにこれは難題だ。同情。しかも相当下品だ。

ジュリエットの独白。

Come, gentle night; come, loving, black-browed night:
Give me my Romeo; and, when I shall die,
Take him and cut him out in little stars,
And he will make the face of heaven so fine
That all the world will be in love with night
And pay no worship to the garish sun.

訳は「来て、優しい夜、早く来て、いとしい闇、ロミオをこの手に渡して。私が死んだら返してあげる。切り刻んで小さな星にして。そうすれば夜空の顔は美しく飾られ、世界じゅうの人が夜に恋をし、ぎらぎらした太陽など崇めるのはやめるだろう。」最後の「~だろう」って口調はどうかと思うが、原点に忠実ないい訳である。

が、ワーズワース版の注釈によると、二行目の"when I shall die"の"die"は単なる"die"ではなく、「性的絶頂を迎える」という意味も含むらしい。イッた、ということだ。こう考えると、結婚後ロミオとの再会を待ちわびるジュリエットの顔が急に違って見えてくる。日本語版では清楚でロマンティックなイメージしかないが、ぐっと成長を伺わせる台詞になる。

die一語をあげつらってそんな風に解釈するのはちょっと苦しい気もするが、とにかく全編を通してこういうことがザラにある。一つの単語が重層的なイメージを持つというのは前から聞き及んではいたが、こんなの原典読まなきゃわかるはずがない。訳しようもない。「私が果てたら」とでもしたら両義的に取れるだろうが、一気に台詞の焦点がぼやける。「果てたら」、これでは曖昧なのだけあって、dieが表すような表裏のイメージとは違う。

とにかく野卑な冗談が多いのだが、この野卑な冗談、性的なからかいの存在が、ロミジュリを単なるセンチメンタル過剰の青臭いメロドラマにするのを阻んでいる。この記事の遥か上に写真を引用したフランコ・ゼフィレッリ版の映画「ロミオとジュリエット」に俺はぼろぼろ涙したが、確かに小便臭い理想主義的恋愛劇と取れなくもない。二人のピュアで頭でっかちでプラトニックな恋愛と、奔放な乳母や放埓なマキューシオの放つ猥雑な冗談に天秤に分かたせることで、シェイクスピアはこの悲劇に活気を与え、生気を吹き込んだ。ロマンチックな韻律詩なら部屋で一人で読めばいい。劇場で観る演劇には、別の文法があるということだ。

さて、これだけ書くともう誰もまともには読んでいないだろうが、最後にもう一つ引用を。長台詞や独白にこういった詩的で重層的な言い回しがあるのは理解できるが、さり気ない台詞にも「シェイクスピアすげー」を感じることがある。

JULIET「Then, window, lay day in, and let life out.」

逢瀬の後、ロミオが窓から逃げる際のジュリエットの台詞。「早く行って!」とか「急いで!」とか、そんな気の利かない台詞は使わない。「窓よ、光を入れ、命を送り出して!」。どうよこれ。ちなみに松岡訳。やはり原文の調子のよさには適わないが、こんな何でもない台詞にまで命を吹き込まなくたっていいんじゃないか、シェイクスピア。勘弁してくれ。

(dayは光より朝と訳した方がいいんじゃないだろうか。命を送り出すために、あれほど遠ざけていた朝をあえて迎え入れる…という台詞だし。)

まったくまとまりのない文章になった。こうやっていくらだらだら書いたところで文脈も何もないとこの感動は伝わらないと思うが、とにかくいちいちが発見と感動の連続だった。ウィルすごい。引用も、肝心なところが見つからなかったり長過ぎるor複雑過ぎて書けなかったりで大変残念。またちゃんと書きたい。原書シェイクスピア、マジおすすめです。感動した。次はマクベスとリア王読む。