PLAYNOTE カミュ『誤解』

2004年02月05日

カミュ『誤解』

[読書] 2004/02/05 09:37
カミュ
Albert Camus (1913-1960)

ちょっと前は不条理の作家として全共闘世代に愛読され、最近ではセイン・カミュの親戚として有名なアルベール・カミュの戯曲『誤解』を読んだ(白水社『現代世界演劇 5』収録)。『異邦人』『ペスト』は読んだが、『誤解』はよりわかりやすい形でカミュの人生に対する哲学を提示している。

短いし、次へ次へと読ませる筋立てをしているし、読みやすかった。それにしても言葉の一つ一つが重い。何気ない会話の裏にも、通奏低音として陰気で薄暗い不幸の旋律が流れている。次に引用する台詞、これが若い娘の台詞だろうか?

「なるようになっただけよ。お母さんだっておっしゃったでしょう、この世は理屈どおりにはいかないのよ。」(p238)

「私だって自分の家があると思っていたわ。罪こそわが家だ、この罪こそ母と私を永久に結びつけてくれるんだと思っていたわ。私がこの世でほかにいったいだれを味方にできて? 一緒に人殺しをやったものでなくて?」(p244)

あらすじ。旅行者を殺して川に流し、金銭を得ている母子。二人は次を最後に殺人から足を荒い、この土地を離れ海の見える場所で新たな人生を始めようと語り合っていた。そこに、外地で成功し、幾ばくかの富を得た息子が帰って来る。「母さんと妹を救わなければ」と…。息子は宿を求める旅人を装って家に帰り、家庭の様子を探ろうとするが…。あとはご想像の通りである。

不条理という思想は20世紀のものだろうか? 俺は文学史も哲学史もちゃんと勉強したことがないのでさっぱりわからないが、かつて悲劇と呼ばれたものは皆不条理と通底するものを持っていたはずだ。

読んでいる最中から(本来的な意味での)「悲劇」という単語がちらちらと脳裏を霞めたが、解題でカミュ自身がこれを現代の悲劇として描いていたことを知って驚いた。カミュはこう述べている。

…しかし私は、これが絶望的な芝居であるとは思わない。不幸が自ら超克さるべき方法は一つしかない。それは悲劇形式による変貌である。

「悲劇形式とは、とローレンスは言う、不幸に対する強烈な足蹴のようなものに違いない」。『誤解』は現代の筋書の中に宿命という古代のテーマを再び取り上げようと試みるものである。

しかし、悲劇が終わった時、この芝居が宿命への屈従を弁護していると信じては誤りであろう。これは反対に反抗の戯曲として、誠実の倫理を含みうるからである。(p343、適宜改行を加えた)

先に引用した娘の台詞を思い出して欲しい。恐ろしい殺人を繰り返すこの娘も、生来の罪人ではなかった。娘は海の見える土地で明るい新しい人生をはじめ、恋をし、母と共に幸福に暮らすために紅茶に眠り薬を入れていたのだ。が、しかし、「殺人も繰り返すうちに習慣になる」 ― これは母の台詞である ―。娘の台詞から人間らしい感情は全く感じられない。彼女の言葉はまるで冷え切った岩のように厳しく、酷だ。

ヨーロッパ世界で海と言えば、日本のそれとは比較にならないほど明るく輝いた印象があるものだ。夏のバカンス、あるいはリゾート地のイメージと重なる。作品中には本当に何度も「海の見える土地」のことが言及されるが、その度に「海」のイメージを我々日本人にとっての海でなく、太陽の光降り注ぐ地中海のイメージに置換してやらねばなるまい。生活に打ちひしがれた母子が求めていたのは、そういう場所なのだ。

いやー、これ好きだわ。この戯曲。多分開始十五分でオチが見えちゃうし、構成自体はシンプル過ぎるほどシンプルだけど、だからこそ悲劇が際立つ。オイディプスの破滅を知っている観客がただ破滅していく彼の姿を見ることしか許されないように、観客は破滅していく家族の姿をプロセニアム・アーチの向こうに眺めるしかない。

むかし民藝と文学座が上演したことがあるらしいが、どっかやってくれないかな。いい俳優が出てたら是非観たいな。面白かった。