PLAYNOTE 演劇の観客が減ったのはリアリズム演劇のせい?

2004年01月12日

演劇の観客が減ったのはリアリズム演劇のせい?

[演劇メモ] 2004/01/12 03:31

大学のレポート課題で渡された山田肇(演劇学者。すでに他界)の論考を読んだ。主に演劇の観客についての考察で、いかにも学者然とした冷静で分析的な視点から書かれている。別段目新しいものがあるわけでもないのだが、いくつか刺激的な指摘があったのでメモ代わりに書いておく。

※ただしあくまでメモ代わりなので理路整然とはまとめていません。ご注意を。

まず、「芝居を見る人が減った」というエッセーから。だいたいこんなことが書いてあった。

…芝居の観客が減少したのは、単にテレビや映画の普及のせいと言えるのだろうか? リアリズム演劇というアプローチの成立と観客の減少が時期を同じくしているのは偶然の符号ではない。…(中略)…演劇フェスティバルでイプセンが全く取り上げられないのに対し、シェイクスピアやギリシア悲劇が多く上演されているのは、「(かつての観客層のような)古い一般的な観客は、それが求める物を与えられるならば、消えてなくなりはしないのだということをも意味する。」(要約:俺)

なかなか鋭い指摘。映画の手法を真似たり、テレビのスターを舞台に呼んだりすることで演劇を盛り返そうとかいう試みは、浅はかにも未だに繰り返され続けている。

リアリズムのアプローチが全盛期を迎える頃(19世紀くらい)には演劇はほとんどブルジョアの物になっていたし、そういう連中は別に芝居を楽しむために劇場へ来ていたわけではない。劇場は貴族文化の象徴であり、社交界への入り口でもあった。そう考えれば、成り上がりのブルジョアジーどもが「芝居を見るためではなしに」劇場へ足を運ぶ理由はわかる。

リアリズムを支持した観客と、それ以前の演劇を支持した観客では根本的に層が違うわけだ。映画やテレビに持って行かれた感がある演劇の観客も、リアリズムの隆盛が原因で流出したと考える。納得の行く話だ。何故って、リアリズムで演劇が映画やテレビに勝てるはずがないんだから。

だがしかし、演劇が映画やテレビのような効果を出せないように、映画やテレビには決して出せない効果が演劇にはある。悲劇の上演はその一つだろう。山田論考にも「大勢の観客の中で、個としてではなく言わば群集の総意として悲劇を望む心理がある」……みたいなことが書かれている。これも演劇の祭事性を考えるとすんなり納得できる話。

そういう意味で、リアやオイディプスは未だに客を集める演劇だし、逆に言えば映画やテレビではリアやオイディプスはできっこないわけだ。

続いて「演劇の観客」という論考から。「詩人は未来に読者を期待できるが、演劇人は何よりもまず現在に拘束されている」という一節が、ストレートに演劇の即時性という特徴を言い得ている。

続いて何たらニコルという人が提唱した演劇の観客モデルについて。演劇の観客とは、

  1. 固有の精神を持ち、
  2. 情緒によって支配され、
  3. 虚構を受け入れることを好むが、しかし、それがイリュージョンであることを認め、
  4. その虚構を、行動の動機とすることはしない。

だそうだ。ふむふむ。演劇の観客はお前らが思ってるほど忘我状態じゃないんだよー、ってことだけど、どうなんだろ。

次の指摘は面白かった。「映画、テレビと演劇が共有する物は全くない。俳優が見え聞こえするだけで、共有する特徴は全て外面的な物に過ぎない。」確かに比較対象として持って来やすいだけによく比べちゃうのが映画やテレビだけど、全然別物なんだよな。山田論考では映画やテレビはむしろ絵画や文学に近い、とまで言っている。上演中に観客の影響を受けながら完成される演劇は、提示された時点で未完成であるわけで、絵画や文学などのスタティックな芸術とは大きく異なるのだ……というようなことを言ってたんだと、風に俺は理解している。

こんな感じの論文がまだまだ残っている。レポートどうしようかなぁ。