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福島取材で見えてきた、歴史の連なりに関するメモ

俺が育ったのは福島県の中でもとりわけ地味な石川町という小さな町で、人口は2万人にも満たない。何にもねぇ、実に王道的に何にもねぇ田舎町なんだけど、福島の歴史を網羅的に調べていくうちに、信じられないような歴史がたくさん眠っていることがわかってきて、ちょっと興奮している。

もともと自分が福島と原発の歴史に劇の題材として魅力を感じたのは、人間同士のドラマの背景に、もう一つ大きな、複雑な政治と経済のドラマがあるからだった。原発はただ単純に押し付けられたものではなく、莫大な額の電源交付金を言わば金のニンジンとして鼻先にぶら下げられた結果、住民たち自らが自発的に選び取っていった(あるいは選び取っていくように仕向けられた)ものでもある。この感覚は、俺は直感的に理解できた。前にも書いたが俺の親父は一時期原発の孫請けで働いていたこともある機械技師だ。つまり原発で家族を食わせていた時期がある。例えば仮に、お袋の生まれたこの「何もねぇ田舎」に何千億という金と何万人という雇用がぶら下げられたら、うちの親父と同様にその仕事に飛びつく人間がたくさんいても全く不思議じゃない。

だから本当に脱原発を目指すなら、原発の危険さや、実は全然ローコストな電力じゃないということばっかり声高に叫ぶだけじゃ不十分だろうという直感があった。原発で食っている人たちや、原発で稼いでいる人たちがいる。それはイメージにあるような意地汚い経営者とか政治家たちだけじゃなく、ごくフツーの家族もまた原発で潤っているわけで、本当によくできた政治的・経済的な構造が彼らの心をたぶらかしている。原発は時に麻薬に喩えられる。一度やったらやめられない。そして麻薬とは危険である以前に、超キモチイイものなのだ。だからやめられない。もともと貧しく産業もなかった福島県が東京や仙台のような大都市に憧れを抱く中で、原発は夢を実現させるためのまさに未来のエネルギーとして登場したのだ。そして中央に追いつきたい地方と、地方から搾取したい中央の利害が一致した結果、原発は日本の周縁部のあちこちに次々と建てられた。

福島に原発ができたのは、戊辰戦争の影響だという人がいる。トンデモみたいな話だが、きちんと歴史を追いかけていくとそれも頷ける。福島県の会津藩と言えば明治維新の際、一番最後まで徳川家への忠誠を貫き戦い続けた忠義の藩だった。しかしそれは視点を変えれば、最後まで明治新政府と天皇に楯突き弓を引いた逆賊であるとも言える。明治初期の薩長が主導する藩閥政治において、言わば冷や飯を食わされ続けたのが福島だった。おまけに福島は県内でも一枚岩であったわけではなく、戊辰戦争の戦いの中で県内の村同士が裏切ったり戦ったり、村ごと焼き討ちしたり村ごと強姦・略奪したりし合った歴史がある。当たり前だ。今「福島県」と呼ばれている場所は、会津藩・二本松藩・白河藩・三春藩・棚倉藩など実に大小14の藩を寄せ集めたものだ。もともと一枚岩なんかじゃない。戊辰戦争という凄惨な内戦は、県内にも禍根を残した。俺も今回徹底的に調べてみるまで、三春藩が裏切ったり会津藩が郡山を焼き払ったり、県内での争いがこんなにあったとは知らなかった。

話を戻そう。戊辰戦争で逆賊扱いされた上、県内にも禍根を残した福島県は、明治時代に冷や飯を食わされ続けた。薩長閥が牛耳っている中央政界では福島県民は出世できない。中央政界に人材を送り込めないから地元へ利益を誘導できない。もともと豊かな県ではなかったが、さらに発展が立ち遅れ取り残されていく。当時、県知事は選挙で選ばれていたのではなく、中央から送り込まれた役人だった。明治から昭和にかけての約60年に渡る官選制知事時代、44人いた県知事の中で福島県出身の者はたった2人しかおらず、任期も合わせてわずか3年半と超短い。こんなところにも福島県の冷や飯食わされてた感は見て取れる。明治の初めと言えばまだ選挙制度もない頃だ。薩長閥が取り仕切る中央政府の方針に、ただただ従う他なかった。

そんな中、日本史的に言えば自由民権運動の花が開いていくわけだが、何と福島県が東北の自由民権運動を引っ張っていたという驚きの歴史があった。知ってる人は知ってんだろう、俺は全然知らなかった。おまけにその東北の自由民権運動発祥の地となったのが、我が故郷・あの何もねぇ石川町だったというのだから二度驚いた。

いきさつはこうだ。三春村(三春藩)出身の河野広中という男がいる。三春と言えば戊辰戦争の最中、早々と新政府軍になびき、県内で裏切り者とされた土地である。そんな三春藩の武家に生まれた河野広中は、当然県内では出世もできず、もちろん中央政府でも出世できない。地元の区長とか神社の神主とか閑職をぶらぶら歴任する中で、馬に乗って田んぼのあぜ道を歩きながらジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を読んで自由民権運動に目覚めていった、っつーんだからドラマチックにも程がある。また河野広中は戊辰戦争の際に板垣退助と出会っており、これも彼が東北の自由民権運動をリードしていく大きな要因にもなった。

河野広中は時代が変わりつつあることに鋭敏だったがために新政府軍につき、一度は没落を味わった。しかしその中で板垣退助の知遇を得、さらに中央からの一方的な統治にあえぐ故郷の姿を見たことで、自由民権運動の理想を広めていく。その際に結社「石陽社」を立ち上げたのが俺の故郷・石川町だったというわけだ。河野広中と石陽社から始まった福島の自由民権運動は東北全体をリードしつつ、中央政府から派遣された当時の県知事(県令)・三島通庸との対決姿勢を強めていく。福島という藩閥政治における「冷や飯」地域と、その中でさらに孤立していた三春出身の河野広中が自由民権運動を仕切っていくというこの構図は、深い逆境にある者ほど新しい変化に鋭敏であれるという良い例だろう。

これにて見事福島県には自由と独立の気風が生まれ、以後トントン拍子に発展していき……となればもちろんハッピーなのだがそんなことはなく、落ちこぼれ県であることに変わりはなかった。戦争の度に大量の農民を徴兵に取られ、はかばかしい政界進出もならない、開発も進まない。この開発の遅れ・産業の未発達が後の原発誘致の大きな原因になっていく。

さらに我が故郷・石川町は、もう一度ヘンテコな形で日本史と絡んでくる。それは第二次世界大戦の最中に、陸軍で極秘裏に行われていた「日本の原子爆弾」計画においてである。「日本が原爆作ろうとしていた」というだけでも驚きなのだが、その材料となるウランを掘っていたのが福島県の石川町だったという。もともと石川町はよそに比べて鉱物資源の豊富なことで知られており、微量ならがウラン鉱石も見つかっていたらしい。1944年末~終戦にかけて、中学校の生徒などを動員してひたすらウランを掘っていた。採掘量が微量過ぎたこともあり結局原爆の完成には至らなかったわけだが、こんな形でも東北/福島と原子力の縁は戦前からも始まっていたのだ。

* * *

『はじめての福島学』ほかの著書で有名な開沼博という福島県出身の社会学者は、福島の歴史を植民地になぞらえて説明している。福島県は東京の植民地であったのだという論点だ。やや過激だが頷けるところは多い。米にしても、常磐炭坑の石炭にしても、後の原発電力にしても、東京で足りない・取れない・作れないものを安く買い叩くのには福島はうってつけの土地だった。大変残念なことではあるが歴史を眺めてみると事実であるし、憤ってみたところで経済的な格差はひっくり返せるものでもない。そして富めるものはますます富み、貧しき者はますます貧しくなるという「マタイの法則」は経済の常である。

戦後、福島県が原発を誘致していく流れの中にも、中央政府との関係と経済格差の問題は深く深く根ざしていく。ここから先は、日本の原子力政策を牽引した政治家・中曽根康弘と巨魁・正力松太郎の暗躍やら、東電と政府の電力開発における主導権争いやら、ソ連との核開発競争をリードしたいアメリカ大統領・アイゼンハワーの政策決定なんかが関係してくるんだけど、その舞台となったのが福島県、双葉町&大熊町だったというわけだ。つまり福島県のさらに片田舎である双葉町・大熊町の歴史には、国策としての電力開発と冷戦期における米ソの覇権争いの影響が深く関係していたと言うことができるわけで、しかし現地の住民が原発誘致にむしろ賛成したのは「これで出稼ぎに行かなくて済む」「冬の間も家族といられる」「東京・仙台みたいな都会に福島もなれる」というささやかな夢だったというのだから、胸がギューっと締め付けられる。小さな家族の物語と、全世界レベルの国際政治の物語が、ここにおいて連結する。

当初から「3部作はいるな」と直感していた題材だったが、9部作いけそうな勢いになってきた。いや、3部作にしますけれども。ただ、戦後から始めようと思っていたけど、戊辰戦争から始めた方が面白いんじゃねぇかという気さえしてきた。そうなると3部作はこんな感じになる。

第一部 戊辰戦争と福島における自由民権運動
第二部 戦後復興・列島改造の夢と、福島における原発誘致の実情
第三部 震災以後

「第一部 戊辰戦争」って単語の並びがパワフル過ぎてやばい。第一部だけちょんまげの武将が出てきて「殿、どうかご翻意くだされ!」とかやってるってのもやばい。面白そうだけど、どうすっかな……。

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