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グザヴィエ・ドラン監督『たかが世界の終わり』

原作戯曲に興味があったので観に行ったのだが、なかなか苦痛な時間であった。

(原作、翻訳出てないと思ったら、出てんのな。いずれ読もう)

かと言って別にこの映画を酷評しようとは思わない。僕の求めていたものとちょっとテイストが違っていただけだ。懐石料理を食いに行って「味が薄い」と文句を言ったり、フレンチ食いに行って「量が少ない」と言ったり、そういう類のミスマッチがあっただけだから、この映画に価値があるということはわかる。だけど今俺は全然この映画に食指をそそられなかった。原作は好みに合いそうな印象はあったのだが……。

何でだろうと考えたが、演出が気に入らなかったというのが正直なところかもしれない。俳優の顔のアップで攻め続ける絵面はもちろん意図あってのことだろうが、俺にはかったるかった。プラス、音楽の使い方が好きになれなかったのだと思う。これは大きい。台詞の分量が多いものの、その内容が雄弁の対義語として寡黙であり、表情や演出から拾われる情報が多かったのに対して、音楽はどストレートに過ぎてちょっと興醒めしてしまった。わかりやすさ・具体性と広がり・抽象性は基本的には反比例の関係にある。わかりやすければ意味的な広がりは少ないし、具体的であればあるほど抽象性は少なくなる。言葉と映像の描き出す渋さに対して音楽は、そして歌詞はわかりやすすぎるほどわかりやすく、冒頭の一曲を聞いただけで何だかちょっと興をそがれていたんだと思う。簡潔に言えば「だせーな」と。すみません。

しかし字幕歌詞であそこまで意訳する必要はあったのだろうか? 「Home is not a harbour」という歌詞に対して「家は“希望の”港じゃない」というような補足が付け足されていたけれど、この補足はない方がよかったと思う。それこそ懐石料理にブルドックソースかけるような、余計な親切だったと言うか。……しかしこれも字幕翻訳者なりに精いっぱい考えてこの映画を良く届けようと思ってのサーヴィスなら、俺はどうにも全力で批判するつもりになれないのだ。単純に今日の俺には合わないお皿を頼んでしまったように思う。

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