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三島由紀夫メモ

『白蟻の巣』もすっかり終わった。三島由紀夫関係のメモが机の上にたくさん残っていて、どう整理していいのかもわからないから、ここにペタペタ貼っておく。

人間が自分のためだけに生きるのに卑しいものを感じるのは当然だと思うのであります。人間の生命というのは不思議なもので自分のためだけに生きて自分のためだけに死ぬほど人間は強くない。(三島由紀夫)

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生き延びることそのものが目的になってしまった場合、人間は醜い。これは私自身の体験談でもある。命をつなぐため、直接的に言えばただ飯を食うための金を得るためにする仕事の惨めさにはすさまじいものがある。

現状維持の醜さがあるのだ。

死んでも構わないからこの仕事を完遂したいと覚悟を決めたときに、人間は美しくなれる。しかし、どういった仕事であったら人は命がけで臨めるだろうか。

それができているときは、不思議なもので、当然のようにできている。欠くべからざる価値、絶対に正しいとしか思えないような、疑うことさえ難しいような価値が、己の中の心の一角に確かに鎮座している。

ここにおいて死の哲学は生の哲学と隣接する。死と生の繋がる瞬間が現れる。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
……林房雄は、三島が林との対談『対話・日本人論』(1966年)の中で、政治家たちは詩人や文学者が予見したことを、何十年も過ぎてからやっと気がつくと言ったことに触れながら[180]、「三島君とその青年同志の諌死は、〈平和憲法〉と〈経済大国〉という大嘘の上にあぐらをかき、この美しい――美しくあるべき日本という国を、〈エコノミック・アニマル〉と〈フリー・ライダー〉(只乗り屋)の醜悪な巣窟にして、破滅の淵への地すべりを起させている〈精神的老人たち〉の惰眠をさまし、日本の地すべりそのものをくいとめる最初で最後の、貴重で有効な人柱である」と述べている[180]。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B2%A1%E7%B4%80%E5%AD%90
……その約半年前に三島は、子供が生れたての赤ん坊の頃は、「怪物的であつて、あんまり可愛らしくないので、これなら溺愛しないでもすみさうだ」と安心していたが、少し成長してくると「これは並々ならぬ可愛いもの」だと不安を感じたとし、「人から見て可愛くも何ともないものが可愛くみえるといふことは、すでに錯覚である。困つたことになつたものだと私は思つた」と語っている[22]。

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以下は稽古が始まる前に手元のメモに書き連ねていた文章である。うまくまとまらなかったので破棄した。ましてや最近、森友学園問題や日本会議など、ぜんぜん共感できない連中が大問題を引き起こしてくれちゃって、以前以上に「精神的な支柱・基盤」について考える、書くのが難しくなってしまった。僕は天皇を支柱にしたいとは全く思わないし、戦前回帰の流れには強く反対する。しかし、経済と民主主義の国の中で、日本がからっぽの国になってしまった、お金以外に物差しを持たなくなってしまったことについてはやっぱりどこか怒っている。

今、自分が考えていることを一言で言うと、自由の次の価値を探しているんだ。それについては詳述は避けたい。では以下、ただのメモであるので転載はもちろん引用などもできればご勘弁願いたい。……

……『白蟻の巣』は1955年(昭和30年)に発表された戯曲だが、はじめて読んだときから三島の以下の文章がどうしても頭をよぎって離れなかった。1970年(昭和45年)7月7日、産経新聞の夕刊に掲載された『果たし得ていない約束──私の中の二十五年』という文章だ。三島の死のほんの4ヶ月前に書かれたこの文章は、今でもよく市ヶ谷での三島事件を語る上で引き合いに出されることが多い。

少し長いが適宜引用したい。ちなみに『白蟻の巣』からこの『私の25年』発表の間に、ちょうど25年の歳月が流れている。略および強調は谷。

私の中の二十五年間を考えると、その空虚に今さらびっくりする。私はほとんど「生きた」とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ

二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルス(※谷注:ウィルスのようなもの)である。こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終わるだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。

私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しい芸術至上主義者だと思われていた。私はただ冷笑していたのだ。或る種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうちに私は、自分の冷笑・自分のシニシズムに対してこそ戦わなければならない、と感じるようになった。(略)なるほど私は小説を書きつづけてきた。戯曲もたくさん書いた。しかし作品をいくら積み重ねても、作者にとっては、排泄物を積み重ねたのと同じことである。(略)

私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」。

(三島由紀夫「果たし得ていない約束-私の中の二十五年」より)

三島はこの25年を「戦後民主主義とそこから生じる偽善」に冒された時代だと断じた。そしてその4ヶ月後、1970年11月に自衛隊市ヶ谷駐屯地を襲い、自衛官たちに檄を飛ばしたが、その思いは全く届かず、彼はその場でご存知の通り割腹自殺という劇的な最期を遂げる。

一体彼は、何に怒っていたのだろうか? 市ヶ谷駐屯地で彼が飛ばした「檄」の冒頭には、上掲の『25年』と呼応するようなこんな言葉が並んでいる。

……われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。 (三島由紀夫「檄」より)

1982年すなわち昭和57年に生まれた私にとっては、当然この「檄」の三島は記憶にすらない。曖昧に伝えられたイメージの中での三島は、率直に言えば、愛国主義と死へのロマンに駆り立てられ、割腹自殺というアナクロなショーを演じた狂信的な右翼、という印象だった。文学者としてあれほどの天才を持っていたにも関わらず、政治というくだらないもののために討ち死にした残念な人だとさえ思った。私は高校生の頃に『仮面の告白』『金閣寺』『潮騒』といった代表作を一通り読み、その濃密な美学と端正な文章、ほとばしる情熱とエロスに大変感銘を受けたものの、「なんだか危ない人だ」「愛国主義・天皇崇拝という思想は、自分とは相容れない」といつの間にか三島への興味を失っていった。文学者・三島は愛せたが、政治活動家・三島は愛せなかったのだ。

しかしいつだったか、たとえば三島のこんな文章に出会って、段々と自分のイメージが彼の真実と乖離していたことに気が付き始めた。これもまた少し長いが、三つほど引用する。

……実は私は「愛国心」という言葉があまり好きではない。何となく「愛妻家」という言葉に似た、背中のゾッとするような感じをおぼえる。この、好かない、という意味は、一部の神経質な人たちが愛国心という言葉から感じる政治的アレルギーの症状とは、また少しちがっている。ただ何となく虫が好かず、そういう言葉には、できることならソッポを向いていたいのである。この言葉には官製のにおいがする。また、言葉としての由緒ややさしさがない。どことなく押しつけがましい。反感を買うのももつともだと思われるものが、その底に揺曳してゐる。
(「愛国心」より)

今さら、日本を愛するの、日本人を愛するの、というのはキザにきこえ、愛するまでもなくことばを通じて、われわれは日本につかまれている。 だから私は、日本語を大切にする。これを失ったら、日本人は魂を失うことになるのである
(「日本への信条」より)

「昔からわれわれ日本人には、農本主義から生まれた「天皇」という三角形の頂点(神)のイメージがあり、一人々々が孤独に陥らない愛の原理を持つていた。天皇はわれわれ日本人にとって絶対的な媒体だったんです。私は天皇制についてきかれるたびに、いつも“お祭りは必要なのだから大切にすべきだ”と一言いってたのは、そういふ意味です。」
(三島由紀夫「“人間宣言”批判――小説『英霊の声』が投げた波紋」より)

今この危機感が全然ないというような 時代になってきて、今、世界中で一番呑気なのは日本かもしれないんですが、日本に果たして、こういう危機がもし生じた場合、対処するような大きな精神的基盤があるだろうか。いや、日本人は大丈夫だ、日本人というのは放っておいても、いざという時にやるさ。ところが、放っておくうちにですね、お腹の脂肪が一センチずつだんだんだんだん膨らんでくるのが、皆さんの体験的事実としてご存知だと思うんです。そして、人間というのは豚になる傾向をもっているんです。」
(「我が国の自主防衛について」より)

愛国心という言葉が嫌いだ? 日本を愛するというのがキザに聞こえる? 天皇はせいぜいお祭りのために必要? どれも意外な言葉だった。三島由紀夫はどうやら、今もよく目にする・耳にする一般的な「愛国主義者」ないし「右翼」とは若干毛色が違うらしい。いや、若干どころか、上記文章にもあるように「愛国」という言葉を人に押し付けて「さもなくば反日、国を出て行け」と啖呵を切るような「愛国者」を毛嫌いしていたようにさえ見える。天皇について尋ねられ「お祭りには必要」と答える愛国主義者というのは、ずいぶん珍しい感じがしないだろうか?

そして三島が市ヶ谷駐屯地で自害をしてまで訴えたかったのは単なる忠信・愛国ではなく、上掲の文章で言うところの「大きな精神的基盤」、精神における独立や矜持とでも呼ぶべきものだったらしい。同じく「檄」で三島はこうも言っている。もっともこの言葉はすべて、集まった自衛官たちのガヤと野次にかき消されてほとんど届かなかったらしいが。

われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。(略)

生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。

(三島由紀夫「檄」より)

「檄」の中で三島由紀夫は、自衛隊こそ「真の日本、真の日本人、真の武士の魂」の最後の砦であり、その使命と意義を自覚して覚醒することを通じて、日本人の精神の復興を図ろうと呼びかけている。国防上の危機感を煽って自衛隊の正規軍化を訴えるような口調ではなく、自衛隊を通じて日本人の精神をもう一度独立させるために、自覚と奮起を求めているように読める。天皇そのものではなく、それを象徴とする日本の歴史・伝統を守ることを訴えている。いよいよイメージと異なってきた。

三島由紀夫のこのスタンスを理解するのは私には始めとても難しいことだったし、今でも彼の思想のすべてに共鳴しているわけではない。しかし三島が市ヶ谷駐屯地で叫んだものは、確かに自衛隊の国軍化ではあったが、それは一つの手段・プロセスに過ぎず、むしろ彼は「この25年」、すなわち敗戦後の日本における「経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態に陥った」状態にこそ怒っていた。

そういうことなら、話はわかる。ここからは少し個人的な話になる。私は漠然と、上の世代に対して怒りを感じることがある。前述の通り昭和57年生まれの私にとっては平成一年がちょうど小学校一年生に当たり、昭和の記憶はほとんどない。小渕恵三内閣官房長官(当時)が魚みたいな愉快な顔で「平成」というお習字をテレビで見せているのを見て、何やら大変なことが起こっているらしいことはわかったが、そんなことより早くアニメ番組再開してよとか、そんなことを思っていたように思う。

新聞も読まない、政策議論も投票もしない小学生にとって、社会とか政治との接点なんてテレビくらいだ。そこで小学生時代のテレビの記憶を他に思い出してみると、例えばこんなものがある。ジュリアナ東京、センスをヒラヒラして踊る水着みたいなお姉さんたち。消費税の開始、これからは缶ジュースが100円から110円になる。バブルというものが崩壊した、たくさんの人が首になり、会社が次々潰れる。就職氷河期、大学を出ても就職できるとは限らない……。

大人になった今だからこそわかることだが、つまり日本が経済大国から転落していく長い長い下り坂の最初に立ったのが我々の世代である。私たちの世代にとって、日本は物心ついてからずっと下り坂だ。しかしあのバブル崩壊と経済的凋落は、今となっては信じられないことだが当時はとても意外なことだったらしいし、その予想外の停滞打撃に多くの大人たちが慌てふためいていた。

だからか小学生の頃は、大人たちに随分奇妙なことを言われた気がする。「勉強をしなさい、立派な大人になりなさい。大きな会社に入りなさい、そのために大学にも行きなさい。もちろん今は大学へ行ったからと言っていい会社に入れるとは限らないし、大きな会社でも安泰じゃない。でも、だからこそ勉強しなさい」……。いろいろと矛盾しており、今思えば「じゃあどうしろって言うんだ」と怒鳴り返してもよさそうなものだが、そこは小学生の頭である。「なるほど大人は難しいものだな」とわからずにいる。その本当の意味がわかるのは、随分大人になってからだ。

子どもの頃の私が、今思えば矛盾した、ろくでもないアドバイスばかり受けたのは何故だろう。私の両親がアホだったとか、そういうご指摘はご勘弁頂きたい。うちの両親はつましいながらも立派な親で、二人の子どもを大学にまで通わせてくれたし、「やりたいことをやりなさい」と何もかも応援してくれた。私が思うに、平成元年以降の長い長い下り坂、「失われた20年」のスタート地点に立ったばかりの大人たちは、本当に混乱していた。今までのように勉強して大学に入れば安泰、大企業に入って猛烈に働けば報われるというわかりやすいモデルが崩壊し、一瞬どう未来を語ってよいのかわからなくなったのではないか。

そしてその時点で日本社会は、大きく分けて二つの過失を犯した。一つには、バブル崩壊と経済的凋落は一時的な現象であり、いずれ再び日本経済は良くなるだろうと無根拠に信じてしまったこと。もう一つは経済的繁栄以外の価値観を、社会全体で共有できなかったことだ。だからバブル崩壊を経ても「とりあえず勉強をして大企業を目指しておけ」という言説を続けるしかなかったし、経済がダメになったからといってすぐに別の大切なものを見出し、伝えることができなかった。戦後に大復興を遂げ行動経済成長を迎えたとは言え、それはあくまで経済という尺度の上で勝ったということに過ぎない。過労死、公害、異常な自殺率など歪みはたくさん出ていたが…………

「大きな会社でも潰れるかもしれないし、いい大学に入ってもいい会社に入れるとは限らないけど、勉強しなさい」という一連の言葉の中には、経済以外の物差しはない。もちろんときどき、「やりたいことをやりなさい」とか「人の役に立つ仕事をしなさい」とちょっと珍しいことを言う大人もいたにはいたが、「そう簡単なもんじゃない」とすぐ他の大人に冷や水を浴びせられていた。

そして見事大人になってみて我々の世代に残されたのは、巨額の財政赤字と超高齢化社会・高騰する社会保障費・一向に良くならない景気と、今まさに直面しているこのろくでもない社会である。正直な話、私は自分より一回りも二回りも年上の大人が「今の政治はダメだね」とか「日本も悪くなった」と言う度に、腹の中のどこかでこっそり怒っている。そういう社会を作ったのは、あんたたちじゃないか。あんたたちがやってきたことの結果が、今のこの社会だろうと。腹のどこかでムクリと起き上がるその怒りを、目の前の当人にぶつけても仕方がないということはわかっている。俺一人が決めたわけじゃない、私はあのとき反対した、自分はもともと社会や周囲に警告していたのだ、そういう声が返ってくるだろう。そしてきっと、それは本当なのだろうとも思う。民主主義という奴の悪い側面はここにもある、責任の所在が極めて不明瞭になってしまうのだ。誰もが悪くないとも言えるし、誰しもがちょっとずつ悪いとも言える。

いずれにせよ厳然たる事実として、この何だかどうしようもない社会で大人をやっていくしかない私は、じゃあこれからどうするべきかとよく考える。悲観的な意見だが、この先日本経済が大いに巻き返し、財政赤字を吹っ飛ばして、すでに4人に1人が65歳以上というお荷物を軽々持てる大反映を迎える……ということはまずないだろう。これは日本に限った話ではなく、世界的に経済は傾き、一部の富豪に富が集中していくだろうことは一昨年ブームになったピケティ本でも言われていたことだ。これまでも長い下り坂を降りてきて、先を見渡してみてもやっぱり同じくいつ終わるともわからない長い下り坂が目の前に広がっている。

こういう話をするとすぐに「しかし、こうすれば経済は良くなる」「悪くなるとは限らない」という反論が出てきて議論がごちゃ混ぜになってしまうのだが、この手の反論は経済誌にでも発表してもらえば良いし、そもそも私が問いたいのはそういうことではない。本題は、経済以外に戦後の日本人は尺度というものを持っていただろうか、ということだ。確かに日本は戦後、経済大国として他を引き離し、アジア一どころか世界第二位まで上り詰めた。それは大いに、戦争によって傷つけられた日本人のプライドを癒やしたのだ。しかしそれはとりもなおさず、経済的発展以外で誇れるプライドや幸福というものを我々が持てていないということの裏返しでもある。

ここまで来て私の実感は、三島由紀夫の「檄」とはじめて一致する。戦後の日本は、経済以外に共有できる尺度を持たないまま復興を終えてしまった空っぽの国であるように思われる。私は自分を愛国主義者とは思わないし、今のこの国の形が好きだと胸を張ってはとても言えないが、日本に伝わる伝統や文化、そして言葉を愛している。自分でもやにわに信じられないことではあったが、あの狂信的な愛国主義と思っていた三島由紀夫と言っていることが重なっているのである。

三島は「鼻をつまみながら通り過ぎた」この25年を後悔し、打ち壊そうとして、あの無謀な決起を強行した。私は上の世代がひたすらに経済的繁栄をだけ追い求めて、他に誇るべきものを築き得なかった空疎な戦後の70年間を腹立たしく思う。この点において私は三島由紀夫と同志であると認めざるを得ないし、彼が1970年に問い掛けた問いは今も有効だと言わざるを得ない。すなわち「鼻をつまみながら通り過ぎた25年間」はその後も続いた。期間が伸びて、「鼻をつまみながら通り過ぎた70年間」となっただけだ。

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